野村監督時代からの伝統 ヤクルト「再生工場」の系譜

[ 2015年8月31日 11:00 ]

「野村再生工場」で復活した田畑一也

 今年のヤクルトには、ある一人の救世主が現れた。その名は山中浩史。昨シーズン途中、川島慶三、日高亮との交換トレードで新垣渚とともにソフトバンクからヤクルトへ移籍してきた。

 昨年までのプロ2年間で勝ち星はなかったものの、6月12日の西武戦でプロ初勝利を挙げると、そこから勝ち星を重ね、無傷の6連勝(8月26日現在)。現在は肉離れで離脱してしまっているが、ヤクルト躍進に欠かせない先発投手だ。

 野村克也監督のちょっとしたアドバイスや配置転換、名捕手・古田敦也のリードなどで、復活・開花する選手が多く、「野村再生工場」と呼ばれていた流れも汲んで、ヤクルトの歴史を紐解くと、前球団で活躍できなかった選手や自由契約となった選手が活躍するケースが多い。その系譜を改めて振り返ってみよう。

◎未だ語り継がれる「野村再生工場」

「野村再生工場」で復活を遂げた選手として真っ先に名前が挙がるのは田畑一也だ。1992年のドラフト会議でダイエーのドラフト10位で入団した田畑は、1995年オフに交換トレードでヤクルトへ移籍した。ダイエー時代は2勝しか挙げられなかったが、移籍初年度の1996年に12勝と一気にブレーク。さらに翌1997年には15勝5敗と好成績を残し、チームの日本一に大きく貢献した。

 その1997年は、かつて広島で4番を打っていた男の3連発からペナントレースがスタートした。1996年オフに広島を自由契約された小早川毅彦は、巨人との開幕戦で5番打者に抜擢される。その背景には「大学1年、プロ1年目と門出の年に必ず活躍している」という野村監督の読みだった。そして、小早川はその読み通りの、いや読み以上の結果を開幕戦で残した。2回の初打席、巨人のエース・斎藤雅樹から先制本塁打を放つと、1-2で迎えた4回に同点弾。さらに6回には勝ち越しの2ランと1試合3本塁打の大活躍。試合は6-3でヤクルトが勝利し、前年まで3年連続開幕戦で完封勝利を挙げていた斎藤を粉砕した。小早川はこの年、12本塁打を放ち、復活を果たした。

 他にもチームの若返りもあって西武から戦力外通告を受け、1996年に移籍した辻発彦は、二塁手のレギュラーとしてリーグ2位の打率.333をマーク。古巣・西武を見返す結果を残した。

◎若松監督時代も「再生工場」は稼働

 若松勉監督の下、日本一となった2001年には、2人の投手の「再生」があった。近鉄、広島、巨人と渡り歩いた入来智は、巨人を戦力外となり、ヤクルトに入団。それまでは近鉄時代の1993年に挙げた5勝が最高だったが、強気の投球と古田敦也のリードがハマり、シーズン序盤から活躍。オールスターゲームに監督推薦で選ばれ、弟・祐作(当時巨人)との継投は話題となった。最終的に自己最多の10勝をマークし、日本シリーズでも勝ち投手になった。

 もう一人は前田浩継。九州共立大から1998年ドラフト2位でオリックスに入団。2年で戦力外通告を受けてしまったものの、テストに合格しヤクルトとの契約に至った。2000年にプロ初勝利を含む2勝を挙げると、2001年には、先発ローテーションを1年間守り、7勝を記録した。

 また、2003年の鈴木健の活躍も見逃せない。西武の4番打者として1997、1998年のリーグ連覇に大きく貢献した鈴木だったが、成績不振もあって2002年オフに金銭トレードでヤクルトへ移籍。開幕戦で岩村明憲が故障したことにより、三塁手としてスタメン出場が増えた。以降、主に5番打者として、岩村の復帰後は一塁手に移り、シーズン終了までレギュラーとして試合に出続けた。その結果、リーグ5位の打率.317、20本塁打、95打点の成績でベストナインとカムバック賞を獲得。36本の二塁打はリーグトップの数字だった。(『週刊野球太郎』編集部)

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