松井稼頭央独白 挑戦の連続―9割しんどくても幸せ

[ 2015年7月29日 09:05 ]

<楽・ソ>初回1死一塁、松井稼は中前打を放ち日本通算2000本安打を達成。花束を受け取る

パ・リーグ 楽天1-5ソフトバンク

(7月28日 秋田)
 松井稼頭央。これほど人生の節目で決断してきたプロ野球選手はいないだろう。93年にドラフト3位で西武に入団。プロ入りと同時に投手から内野手に転向した。スイッチ転向にメジャー挑戦、10月に40歳を迎える今季は外野手に転向した。挑戦の連続。プレースタイル同様、よどみなく次のステージの舞台に上がり、軽やかに舞う。日本通算2000安打を達成し、自らの野球観をスポニチに激白した。 (取材・構成 倉橋 憲史、徳原 麗奈)

 人生の節目の決断の数々について、松井稼は爽やかに振り返る。

 「挑戦というか、新鮮なんですよ。また新しいことができるのは幸せですよね。しんどいことは当然8~9割ある。でも一つでも楽しいことがあればね。アホなだけかもしれないですけどね」

 PL学園時代の投手から野手に転向して入団した1年目の94年。西武は当時、清原、辻、石毛、田辺と「日本一の内野陣」を形成していた。

 「壁は感じなかった。全てが初めて。新鮮だった。ゼロからのスタートに、不安も感じていられないくらいやることが多かった。帰塁の練習でヘッドスライディングすらできなかった。どうやって帰るねんと。先輩の動きを見て、ひたすら練習するしかなかった。でも、足と肩は誰にも負けないと思っていたし、プロの練習がキツいと思ったことはない」

 96年、希代のスイッチヒッター誕生の瞬間も土井打撃コーチの「左で10回のうち2回打ったら打率上がるぞ」との軽い言葉に迷わずうなずいた。

 「何の違和感もなく、“あっ、そうですね”と。当時僕は右投手に右打席で打率1割台だったから。単純でしたね」

 当時の東尾修監督(スポニチ本紙評論家)が打撃投手を務め、体目掛けて、ぶつけてくる。左打席は避ける練習から始まった。最初はテニスボールだったが、時間がたつと硬球になった。20万円の特注防具を着けているとはいえ、厳しい特訓だった。

 「痛いけど、痛いと言えない。東尾監督は笑っていた。でも、スイッチは抜ける球がないなと。全て対角線に入る。右対右、左対左だと抜ける球で体に当たるけど、よほど体目掛けて投げてこないと、右対左、左対右では当たらない。恐怖心はなくなりました」 常に前向きに野球に取り組んできた。そんな松井稼にも野球を辞めたいと思った時期があったという――。

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