【高校野球100年】150キロ時代扉開けた 05年夏、辻内152キロ

[ 2015年7月17日 11:30 ]

スピードガン表示導入後、初めて150キロの大台を突破した大阪桐蔭の辻内

 甲子園球場の電光掲示板でスピード表示が始まったのは、2004年のセンバツからだった。翌05年夏、大阪桐蔭の辻内崇伸投手が初めて150キロの大台を突破。観客を沸かせた。12年夏の岩手大会で花巻東・大谷翔平投手(日本ハム)が160キロをマークするなど高校生投手の球速は年々、上がり、大きな注目を集めるようになった。スピード表示が球児に与えた影響とは――。 (川島 毅洋)

 05年8月8日。大阪桐蔭のエース左腕・辻内は、春日部共栄との1回戦で先発。1番打者・山口に投じた5球目の直球が球場のスピードガンで152キロを計測した。

 「試合前に記者の方たちからスピードのことばかり質問されていて“スピード表示は絶対に見ません”と言っていたんです。あの時は球場のどよめきというか、ざわざわした感じで“ああ、出ているのかな”と思った」と回想する。甲子園のスコアボードに、初めて150キロ台の数字が表示された瞬間だった。

 ネット裏スカウトのスピードガンでは自己最速の156キロを計測したが、春日部共栄打線につかまって4回2/3を5安打6失点で降板。「地に足が着いていない感じで、バッターに集中できていなかった」。いくら球速が出ていても、切れを欠けば打者に対応されてしまう時代になっていた。5日後の2回戦。藤代戦ではその反省を生かした。「2回戦からは表示をガンガン見ました。力を入れたら150キロが出ていた」。あえてスピードを意識することで19奪三振の快投。ただ1失点完投勝利の一方で「夏は全球全力で投げたら持たない。下位打線には140キロくらいの球を投げて“抜いて投げているな”とばれるのが嫌でしたね」と球速表示がネックになったこともあった。

 スピードガンが甲子園球場に設置されたのは92年。だが「スピード表示は高校野球にふさわしくない」という理由から、球場内で球速が表示されることはなかった。一足先に表示を始めたのはテレビ画面。97年から朝日放送が表示を始めた。ネット裏ではプロ野球のスカウト陣が有望な高校生投手の球速を計測することは当たり前になっていた。98年に春夏連覇を達成した横浜。平成の怪物・松坂大輔は「出た!150キロ」など、球速がファンの注目を集めた。これを受けたNHKでも00年から画面での球速表示をスタート。04年センバツから球場内にもスピードが表示された。

 かつて、怪童と呼ばれた浪商・尾崎行雄や作新学院の怪物・江川卓ら「球速表示が出ていれば150キロを超えていただろう」と評される投手もいた。球速を実際に目にできるファンには喜ばしいことでもある。辻内も「見ている人が楽しめるのはいいことだと思う」と賛同する。

 辻内は昨年から女子プロ野球、アストライアの投手コーチに就任。120キロ台が出れば本格派とされる女子選手への指導方針は「スピードより低めへの制球力」だという。「金属バットですから、速いだけでは打たれる。抑えるためにはやっぱり制球力です」。

 今では打撃練習でマシン相手に150キロを打つ高校も珍しくない。スピードガンの導入は、高校球児の球速に対する意識を変える契機にもなった。 =敬称略=

 ◆辻内 崇伸(つじうち・たかのぶ)1987年(昭62)12月5日、奈良県生まれの27歳。大阪桐蔭2年センバツからベンチ入りして秋からエース。3年夏は甲子園4強。05年の高校生ドラフト1位で巨人入り。プロでは故障に悩まされ、1軍登板がないまま13年限りで現役引退。14年から女子プロ野球アストライアの投手コーチを務める。

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