連続試合安打日本記録の高橋慶彦 闘争心に火をつけた古葉監督の言葉

[ 2015年7月17日 10:55 ]

33試合連続安打を記録した広島の高橋慶彦(右)

 今シーズン、ロッテ・清田育宏が5月から6月にかけて23試合連続安打を記録。7月14日の試合でストップしてしまったが、西武・秋山翔吾は31試合連続安打まで記録を伸ばした。

 この両選手が連続試合安打を継続している際、頻繁に出てきたのは、日本記録は33試合連続安打、その記録を樹立したのは高橋慶彦(元広島ほか)だということだ。高橋慶彦といえば、その豊富な練習量で球史に名を刻む選手にまで駆け上がり、そのルックスと甘いマスクで、多くの女性たちを魅了した。その大記録を打ち立てた高橋慶彦の足跡を、改めて振り返ってみよう。

◎プロ入り後に本格的に野手へ

 高橋は高校3年夏、東京・城西高校のエースとして甲子園に出場。甲子園で見せた本塁への走塁が広島の名スカウト・木庭教の目に留まり1974年のドラフト3位で広島へ入団する。

 翌1975年、プロ入りと同時に投手から野手へ転向した高橋だったが、プロの世界の高いレベルを実感して「すぐクビになるかもしれない」と自信を無くす。そこで救いの手を差し伸べたのが、この年の途中で監督に就任する古葉竹識だった。古葉は「慶彦、プロは足だけでもメシが食えるぞ」と、プロで生き残るための方向性を伝授する。

 また、その俊足を生かすため、本来右打者だった高橋はスイッチヒッターに挑戦。左打席での打撃をマスターするために、「猛練習」と形容されるほどにバットを振り込んだ。後に古葉は「あの子ほど練習する選手を見たことがない」と振り返っている。

 その後、メキメキと頭角を現し始めた高橋を、古葉は遊撃手に抜擢する。コーチ陣が反対の意見を唱えるなか、古葉は高橋に「お前が出てくるか、オレがユニフォームを脱ぐかだぞ」と声を掛け、その闘争本能に火を点けさせた。

◎赤ヘル軍団の「1番・遊撃手」に定着

 1978年、背番号が40から2へと変わった高橋は、開幕から「1番・遊撃手」で出場し続けてレギュラーに定着。110試合に出場して打率.302と結果を残す。

 そして1979年は、高橋にとって大きなシーズンとなった。
 6月6日、ナゴヤ球場で行われた中日戦でヒットを放つと、そこから毎試合ヒットを重ねていく。連続試合安打が20を超え、30を超え……。そして7月29日の大洋戦で、1971年に長池徳二(当時阪急)が記録した32試合連続安打の日本記録に並んだ。

 新記録が懸かった試合は7月31日、広島市民球場での巨人戦。1回裏、1番打者として右打席に立つ高橋に球場のすべての視線が集まった。巨人の先発・新浦寿夫が投じた2球目をレフト前に運び、ついに日本記録を更新。球場中が歓喜に包まれた。大記録を打ち立てた高橋だったが直後の2回、守備中に負傷し途中退場してしまった。8月8日の阪神戦で復帰したものの、ノーヒットに終わり、連続安打記録は33でストップした。

◎広島東洋カープと高橋慶彦

 33試合連続安打をマークしたこの年、高橋は55盗塁をマークして盗塁王を獲得。日本シリーズでも打率.444の活躍で、シリーズMVPを受賞して、広島初の日本一に大きく貢献した。さらに翌年にも盗塁王となり、チームも2年連続日本一に。

 1983年に打撃フォームを改良し、本塁打数が急増。前年までプロ通算28本塁打だった高橋が24本塁打を記録。いまとなって振り返ると、両打ちで初めての「トリプルスリー」を達成できる可能性もあった。長きにわたって、赤ヘル打線のトップバッターとして君臨した。

 1989年にロッテへトレードされてチームを離れる。それ以降、ずっとチームとは疎遠状態(広島市民球場閉鎖前に行われたOBオールスターゲームには参加)で、かれこれもう四半世紀が経ってしまった。それでも、広島での高橋慶彦人気も、高橋本人の広島に対する強い想いも衰えていない。(『週刊野球太郎』編集部)

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