【高校野球100年】ふぶいてもノック 駒苫04年V 大旗は津軽海峡を越えた

[ 2015年7月10日 10:11 ]

04年夏、北海道勢として初優勝を成し遂げ優勝旗を手に行進する駒大苫小牧ナイン

 北海道勢の大会初出場は1920年の第6回、北海中だった。それから84年後の2004年。第86回大会で駒大苫小牧が春夏通じて北海道勢として初優勝の快挙を成し遂げた。日大三、横浜など強豪を次々と下し、決勝では同年センバツ優勝校の済美を撃破。95年に就任した香田誉士史監督(44=現西部ガスコーチ)は、北国のハンデを乗り越えるための指導に徹した。苦難の時代を乗り越えての大旗の津軽海峡越えには、さまざまな改革があった。(川島 毅洋)

 北海道は夏に勝てない――。1920年に初出場した北海中が1928年に4強入り。しかし、その後は苦難の年月が過ぎた。北海道内の高校は11月~4月頃まで雪のためにグラウンドが使えず、どうしても実戦練習が不足する。6月に慌ただしく予選が始まり、真夏の甲子園は体験したことがない猛暑。全国の舞台で勝ち上がるには、北国のハンデは大きかった。

 95年に駒大苫小牧の監督に就任した香田は佐賀県出身。前年夏、母校・佐賀商のコーチとして甲子園優勝に携わっていた。縁もゆかりもない地への赴任は、駒大時代の恩師・太田誠(現駒大野球部OB会長)に勧められたものだったが「北海道の選手は打つ、投げるという能力はまあまあ。でもエンドランや走塁面の細かいプレーや守備の連係は鍛えられていなかった」と回想する。

 その北海道で、社会人野球の大昭和製紙北海道で都市対抗優勝を経験した我喜屋(がきや)優(現興南監督)に出会った。「雪が積もる?取ればいいべや」など胸に響く助言をもらい、冬の過ごし方をガラリと変えた。

 グラウンドでは雪上ノックを始めた。「最初は選手が“きょうは無理です”と言ってくるから“ふぶいてもやるよ”と。“心の目でボールを見ろ”なんて言って雪の上でやりましたね」。マウンド、打席内には滑り止め用にじゅうたんを敷き、氷点下の中で紅白戦もこなした。

 01年夏に甲子園出場も初戦敗退。03年センバツも初戦で敗れた。同年夏は倉敷工に8―0とリードしながら降雨ノーゲーム。翌日の再試合で敗れるなど、初勝利の壁に苦しんだが「組織力で戦えるチームになっている」と手応えはつかんでいた。就任から10年目の04年夏。初戦で佐世保実を下して春夏通じて甲子園初勝利を挙げると快進撃は始まった。日大三、横浜、東海大甲府と優勝候補に打ち勝って道勢初の決勝進出。済美戦は4点差をひっくり返し、初の頂点に立った。

 5試合連続2桁安打。チーム打率・448は今も大会最高打率として残る。一方で6投手を擁して全試合継投による勝利。「夏を勝ち上がるには複数の投手は必要。投手ごとに黄色信号のしぐさやサインはすべて把握していたから、交代のタイミングは迷わなかった」。雪上ノックで鍛えられたナインは5試合でわずか1失策。攻守両面で北国の印象を覆した。

 就任当初は有望な中学生の勧誘に行っても相手にされなかった。雪の上で野球をすれば周囲から笑われた。それでも、九州男児の香田は屈しなかった。「北海道に旗が来ていないのは分かっていた。インパクトに残ることを最初にしたかった」。宣言通り、東北勢よりも先に大旗を北海道に持ち帰ってみせた。快挙を成し遂げた04年夏。ベンチ入り18選手は全員が道産子だった。 =敬称略=

 ◆香田 誉士史(こうだ・よしふみ)1971年(昭46)4月11日、佐賀県生まれの44歳。佐賀商2年夏、3年春夏に甲子園に出場。駒大を経て、佐賀商のコーチとして94年夏に全国制覇に貢献。95年に駒大苫小牧監督に就任し04、05年夏に甲子園優勝。06年夏は準優勝。08年から鶴見大コーチを務め、12年4月から社会人野球・西部ガスのコーチ。

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