松井5敬遠男は監督兼任で現役継続中 苦難乗り越え初の全国切符

[ 2015年7月7日 10:20 ]

初の全日本クラブ選手権出場を決め胴上げされる河野和洋監督

 7月4日、全日本クラブ選手権大会・関東予選で繰り広げられた異色チーム同士の対決。プロ野球の元・応援団がつくった「TOKYO METS」に対するのは、「松井秀喜を5敬遠した男」が率いるチームだった。栃木・足利市総合運動場でひっそりと熱戦を戦った両チームの人々を紹介する。第二回は「千葉熱血MAKING」編。

 一人だけスイングが異質だった。

 バットヘッドをクイッ、クイッと釣竿でも垂らすように揺らしながら構え、右足を高く上げてフルスイング。頭を後方に仰け反らせる「ステイバック」は、まるでメジャーリーガーのような迫力だ。コンパクトなスイングをする打者が多い中で一際目立つそのスラッガーは、チームの4番打者であり、監督でもあった。

 河野和洋、40歳。1992年夏の甲子園で星稜・松井秀喜を5打席連続敬遠した明徳義塾の投手……と聞けば、誰もがピンとくるだろう。現在は千葉県のクラブチーム・千葉熱血MAKINGの選手兼監督を務めている。背番号は「55」。もちろん、松井が現役時代につけていた番号だ。

 あれから20年以上が経つというのに、いまだに河野のもとには新聞、テレビ、雑誌とさまざまな媒体が取材に訪れる。数え切れないほどの取材者に毎年同じことを聞かれれば、「そのことはもういいよ!」と煩わしく感じてもおかしくない。だが、河野にそんな気配はまったくない。むしろ、近年は専修大時代の同期生である黒田博樹(広島)についてのコメント依頼も増えているそうで、「『ニューヨークの4番とエースのことはオレに聞け!』って感じですよ」と笑い飛ばしている。

 明徳義塾、専修大、ヤマハとステップアップしたが、NPB入りはかなわず。米独立リーグを経て、2008年から熱血MAKINGの選手兼監督となった。

 熱血MAKINGは決まった練習場を持たないため、毎週グラウンドを確保するために監督自ら手配をすることもある。ただ選手を指導するだけではなく、就職が決まっていない選手の面倒を見たり、苦労はたくさんある。今や年齢は40歳を超え、松井も現役を引退した。年々、体の反応や視力に衰えを感じることも増えたという。それでも今もクラブチームでバットと采配を振る河野を突き動かしているものは何なのだろうか。河野は「今さらそんな愚問を」とでも言いたげな笑顔で、こう答えた。

「だって、野球が楽しいから!」

 全日本クラブ選手権・関東予選のTOKYO METS戦。4番・DHで出場した河野は、フルスイングを見せつけるものの、甘いボールをミスショットする場面が多々見られた。

「体は『とらえた!』と思っても、力が入っていたんだろうなぁ。2回……、いや、3回は打ち損じましたね」

 3打席凡退で迎えた8回裏の4打席目。河野は外角のボールをチョコンとミートして、三遊間を破るヒットを放った。すると自らに代走を起用。そのまま三塁側のベンチに戻るのかと思いきや、三塁ベースコーチャーズボックスに入り、サインを出し始めた。その表情は40歳という年齢を感じさせないほど、ハツラツとしたものだった。すでに2点をリードしていた熱血MAKINGは、この回に2点を追加。4点差として試合を決定づけた。

 試合後、取材に応じた河野に最近の体調について聞くと、驚きの返答があった。

「昼夜の見境なく働いていたせいで交感神経がおかしくなったのか、パニック障害になっちゃって(笑)。動悸がして、呼吸は苦しくなるし、死ぬかと思いました」

 あまりにあっけらかんと病状について語る河野に度肝を抜かれたが、現在は夫人のサポートもあって、ほぼ回復しているという。

 午後から開始された山梨球友クラブとの代表決定戦では、河野は自らの打順を6番に下げ、試合に臨んだ。投手戦になった試合は2対1で熱血MAKINGが勝利。チーム創設10年目にして、初の全国大会出場を決めた。

「平日は仕事をして、土日は朝から晩まで野球漬け。『バカなんじゃないか?』と思うような野球好きばかりです。これからもこのチームで、勝ち続けたいですね」

 9月4日から西武プリンスドームでおこなわれる全日本クラブ選手権。全身から「野球が楽しくて仕方がない」という陽のオーラを発散する河野の姿を、多くの野球ファンに見てもらいたいものだ。

 ◆文=菊地選手(きくちせんしゅ) 1982年生まれ、東京都出身。野球専門誌『野球太郎』編集部員を経て、フリーの編集兼ライターに。プレーヤー視点からの取材をモットーとする。著書に『野球部あるある』シリーズがある。

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