元巨人選手 戦力外通告から「野球人生に悔いのないように」になるまで

[ 2015年5月27日 13:45 ]

01年ドラフトで指名された巨人の新入団選手と原辰徳監督。(上段左から)林昌範、大須賀允、(中段左から)十川雄二、石川雅実、(下段左から)鴨志田貴司、真田裕貴

 プロ野球は日本全国から怪物が集まる弱肉強食の世界。その過酷な競争に敗れた者は、新たに第二の人生を探さなければならない。なかには飛び込んだ先に、想像を超えた奇妙な世界が広がっていることも…。そんな体験をした元プロ野球選手の人生模様をたどる。(敬称略)

 「もう、やめたほうがいいんじゃない」と言ったのは、妻だった。

 2006年のシーズン。秋が深まるにつれ、ストレスでじわじわとむしばまれていく日々。いつもなら二人で楽しく過ごすはずの晩餐で荒れる夫に、妻は不安げな眼差しを向けていた。

 十川雄二、外野手、23歳。読売巨人軍という常に優勝を義務づけられた巨大戦力にあっても、身体能力なら誰にも負けない自信はあった。事実、チーム内でおこなう体力測定では、瞬発系の種目でトップの数値を叩き出したこともある。50メートル走のタイムは、先輩の鈴木尚広と同タイムの5秒68だった。

 それでも、チャンスが来ない。ファームでの出場機会はあっても、代走や守備固めばかり。2年前に投手から外野手に転向したばかりで、実戦経験の浅さを途中出場で埋めるのは酷だった。それでもプロの世界では「結果」がすべてだった。

 そして2006年秋、戦力外通告。ただ、育成選手として再契約するという話があり、目をかけてくれた岡崎郁二軍打撃コーチからは「あきらめるな」と熱心に引き止められた。また、ロッテからは外野手として支配下登録で獲得したいという打診もあった。だが、十川はいずれも断ってしまう。「もう野球はいいかな」と、なかば投げやりに考えていた。

 それでも、11月におこなわれた12球団合同トライアウトには参加した。その翻意の裏には、妻からの意外な言葉があった。

 「最後にピッチャーとして受けたら?」

 もともと、十川は投手としてドラフト5位指名を受けて巨人に入団していた。背番号95というコーチ陣より重い数字に期待の低さがうかがえるが、2年目の夏には早くも一軍に昇格。6試合に登板する。しかし、これが最後の一軍経験になった。翌2004年のシーズン途中には二軍首脳陣の勧めもあって、外野手に転向していた。

 「同期の林(昌範/現DeNA)がすでに活躍していて、『左投手にはもうメドが立った』ということだったんでしょう。それ以上に転向を勧められるということは、僕の素質を買ってくれたということだと思いますし、チャンスがあると思ったんですけど…」

 外野手として巨人をクビになった十川は「もう野球人生に悔いのないように」と、投手としてトライアウトを受験する。決して当てつけというわけではなかったが、髪は金色に染め上げ、口周りにはヒゲをたくわえ「紳士」とはほど遠い風貌で巨人のユニホームに身を包んだ。フルキャスト宮城(現コボスタ宮城)でマウンドに上がると、久しく肩を酷使していない「遊び肩」だったせいか、よく腕が振れた。

 「確か、5人と対戦して4人くらいから三振を取りました。スピードも145キロくらい出て、『これはヘタしたら(契約の話が)来るんじゃないか?』と思っちゃいました」

 合同トライアウトには2回とも参加して、それなりの感触を得たが、投手としての2年半のブランクが嫌われたのだろう。結局、獲得に現れる球団はなかった。

 ここで十川はきっぱりとプロへの未練を断ち切り、第二の人生を歩むことにした。知人のツテをたどり、「日本医療企画」という出版社に就職する。

 「医療・介護系の出版社ということで、興味のあった栄養のことも学べると思ってお世話になることにしました。あと、会社には野球部があって、入るようにと言われました。草野球くらいならいいだろうと、そっちは遊び感覚だったんですが…。いざ入ってみたらとんでもなかったですね」

 十川は、その裏で密かにある人物の「野望」がうごめいていたことをまだ知らなかった。

 ◆文=菊地選手(きくちせんしゅ) 1982年生まれ、東京都出身。野球専門誌『野球太郎』編集部員を経て、フリーの編集兼ライターに。プレーヤー視点からの取材をモットーとする。著書に『野球部あるある』シリーズがある。

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