新校舎と震災遺構…希望と現実が同居する街で生きていく

[ 2015年4月9日 05:30 ]

復興半ばの陸前高田市内を背に気勢をあげる高田ナイン

復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年

 東日本大震災から1489日。高田高校で8日、新年度始業式が行われ、2、3年生の計323人が陸前高田市内の新校舎でスタートを切った。「復興の象徴」とされた校舎再建は無事に完了。一方で、同市は全壊した気仙中校舎など3棟の被災建物の解体を行わず、震災遺構として保存する。気仙中の仮校舎生活は今も続く一方、市内の3中学が統合した高田東中の新校舎建設は、今年1月にようやく着工した。あれから4年余り。陸前高田市には光と影が交錯している。

 まだ靴跡の少ない生徒用玄関を抜けると、新築の木のにおいが広がる。広々とした木目の廊下、人影を察知して点灯する階段の明かり、日の光が注ぐ機能的な図書館。真新しい教室の窓からは、広田湾が一望できた。

 「最初はもう、きれいでヤバイ!って」「ベランダがないのは残念ですけどねー」「でもね、職員玄関が自動ドア!一番驚きました」。生徒は口々に感嘆の声を上げ、その興奮を隠さない。ピカピカの新校舎。陸前高田市にある、高田高校。その完成を待っていた。
 復興の象徴。高田高校の再建は、同市の希望だった。12年9月に旧校舎北側の山林を切り崩し、新校舎建築を開始。駐輪場や歩道の整備も含め、完成は3月19日。予定通り今年度からの移転は実現した。

 3月下旬、高田松原地区に建設する復興祈念公園の基本計画案が固まった。また陸前高田市ではその建物で犠牲者がいなかったことなどを条件に3つの建物を震災遺構に制定した。気仙川の河口、海に隣接する気仙中は3階屋上まで津波が到達しながら、的確な判断で全員が無事に避難したため今後は震災の爪痕を後世に残す役目を果たす。

 気仙中出身の長沼柊(2年)が、毅然(きぜん)と言う。「(建物の中に)がれきも残っていて。いろんな意見があるけど、そのままの姿を残すのは大切だと思う」。当時は小学6年生。1カ月後に入学するはずの校舎は全壊し、そこから15キロ離れた内陸の廃校を利用して3年間を過ごした。通学はスクールバスで片道1時間。放課後の部活動はわずか2時間で、場所は近隣の小学校の狭い校庭。内野ノックがやっとだった。

 伊藤智也(2年)が卒業した高田東中は、13年4月に広田、米崎、小友の3中学校が統合して誕生した。現在は米崎中の校舎を使用するが、今年1月から新校舎建設に着手。しかし背景には、建築会社の人員不足や資材高騰に伴う数度の入札不調があった。それはまた、高田高校や災害公営住宅の建設時にも直面した出来事だった。

 「(統合するのは)2年生の3学期くらいに初めて聞いて…。仕方ないけど寂しかった」。伊藤は当初、広田中の生徒だった。校舎は2階部分まで浸水したため、近隣の広田小を間借りした。どこに行っても、校庭には仮設住宅があった。適当なスペースを見つけ、素振りをした。同じ場所で個人ノックも受けた。

 野球部に限れば、大船渡市内の仮校舎グラウンドに通う日々が続く。練習時間の制約が今まで以上に増える可能性もある。それでも、中山巧貴(2年=気仙中出身)の表情は明るい。「高校に入学した時、こんな広い場所で野球ができることがうれしかった。移動はもう慣れました。のびのびと野球ができるだけで、幸せです」

 新校舎の屋上から、旧市街地を見る。かさ上げ用の土砂を運ぶベルトコンベヤーの下を、大型トラックと観光バスがすれ違う。校舎のすぐ下には仮設住宅。希望と現実が同居する街で、これからも彼らは生きる。小さな幸せ探しにはもう慣れたから、次はその光になると決めている。

 ▼復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年 東日本大震災で甚大な被害を受けた同校硬式野球部の姿を通して、被災地の「現在」を伝える連載企画。2011年5月11日に第1回がスタート。12年3月まで月に1回、3日連続で掲載。その後も不定期で継続しており、今回が49回目となった。

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