富士重工5年ぶり2度目スポニチ大会V 米国帰りの苦労人が好救援

[ 2015年3月14日 05:30 ]

<Honda・富士重工>優勝を決め歓喜の西嶋(手前右)、唐谷バッテリーら富士重工ナイン

第70回JABA東京スポニチ大会・決勝 富士重工1―0Honda

(3月13日 大田)
 準決勝と決勝が13日に行われ、富士重工が決勝でHondaを1―0で下し、5年ぶり2度目の優勝を飾った。かつてドジャース傘下のマイナーリーグでプレーし、今季からチームに加わった西嶋一記投手(26)が好救援。4回から6イニングを無失点に抑え、優勝に導いた。チーム最多の8打点を挙げた竹田育央外野手(25)が最高殊勲選手賞を受賞。富士重工は、今秋の日本選手権大会出場権を獲得した。

 決勝の舞台でマウンドに立つ喜びをかみしめていた。1―0の9回2死二塁。西嶋は一打同点のピンチでも動じない。左腕を思い切り振った。最後の打者を142キロ直球で右飛に打ち取ると、両手を突き上げた。

 「素晴らしいチームで野球ができて、ユニホームが着られることに感謝の気持ちでいっぱい。いい形になってよかった」

 出番は0―0の4回からだった。2番手で救援すると、6安打を許して毎回走者を背負った。それでも6イニングを無失点。最後まで投げ切った。

 横浜高時代は3年だった06年の春夏に甲子園出場。センバツでは背番号「11」をつけ、リリーフとして優勝に貢献した。明大でも1年時から神宮のマウンドに立った。順風満帆だった野球人生。社会人に進む選択もある中、大学卒業後にドジャースとマイナー契約を結んで渡米する道を選んだ。しかし、現実は想像以上に厳しかった。10時間の長距離バス移動、ピザやサンドイッチばかりの食事…。慣れない環境で戸惑いの連続だった。

 3年目のシーズンを前にした春季キャンプ中だった。チームスタッフに呼ばれた。

 「おまえはクビだ。このチームで投げる場所がない。あした、日本に帰ってくれ」

 前日までともにプレーしていたチームメートが翌日に消えることは、米国では珍しくなかった。だから「下を向くことはなかった」と振り返る。帰国後、熊本ゴールデンラークスから声が掛かった。今年1月には明大時代の同期だった矢島マネジャーが所属する富士重工に移籍した。社会人野球に活路があった。

 米国での経験は決して無駄ではなかった。「向こうはパワーがある選手ばかり。低めに投げる大切さや、ツーシームやカットボールなど動かす球も覚えた」。決勝でも打者の手元で微妙に変化する米国仕込みのツーシームなどを操り、狙い通りに2併殺を奪った。

 チームは昨年の都市対抗で準優勝と躍進。日本選手権予選後の10月から指揮を執る飯野勝利監督は「楽な試合はなかった。投手陣は最少失点で抑えれば自信になる。西嶋は粘り強く放ってくれた」と称えた。10年以来5年ぶりのスポニチ大会制覇。常勝チームの土台を固める富士重工で、米国帰りの苦労人左腕が、新たなスタートを切った。

 ◆西嶋 一記(にしじま・かずき)1989年(平元)2月28日、神奈川県生まれの26歳。小3から野球を始め、上飯田中では瀬谷シニアに所属し3年時に日本代表入り。横浜高では3年春夏に甲子園出場。明大を経て、10年にドジャースとマイナー契約。13年に熊本ゴールデンラークス入り。今季から富士重工に移籍した。1メートル87、92キロ。左投げ左打ち。

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