由規 復活への4年…天国の先輩、被災地のため「明るいニュースを」

[ 2015年3月11日 07:30 ]

震災について話すヤクルト・由規

 2011年3月11日に起きた東日本大震災から、11日でちょうど4年。宮城県仙台市出身のヤクルト・由規投手(25)は仙台育英時代にバッテリーを組んだ1学年先輩の斎藤泉さん(享年22)を津波で亡くした。天国の先輩に誓った右肩手術からの復活。震災年以来4年ぶりの1軍登板に向け、11日、オリックスとのオープン戦(京セラドーム)に先発する。福島県相馬市出身の巨人・鈴木尚広外野手(36)も故郷への思いを明かした。

 今でも、深く脳裏に刻まれている。11年3月11日。由規は横浜スタジアムにいた。DeNAとのオープン戦。登板する予定はなく、試合を見ていると突然、大きな揺れに襲われた。震度5強だった。

 「あれだけ揺れて、震源地はこの辺なんだろうなって思っていたら、地元の方だと分かった。パニックでした」。携帯電話はつながらない。球場の固定電話から仙台市内の実家に電話をかけた。何度も何度も。つながったのは1時間以上経過した後。家族の無事を確認し、息をついた。しかし時間がたつにつれ、被害の大きさを実感した。

 仙台育英時代にバッテリーを組んだ1学年上の斎藤泉さん。2年時の06年夏の甲子園で一緒に戦った女房役は石巻市内で津波にのまれた。遺体で発見された、と連絡を受けたのは4月27日。巨人戦に登板する朝だった。静岡は激しい雨が降った。2度の降雨中断。調子は良くなかったが、気力で投げた。「見守ってくれているんだな」。5回1失点で勝利投手になり、天を見上げて思った。

 震災前のキャンプ最終日、2月25日だった。携帯電話が鳴った。斎藤さんからだった。少し話したが、時間がなく「またかけますね」と言って電話を切った。高校を卒業してからもたまに会ってはいたものの頻繁には連絡を取っていなかった。「なのに電話が来た。そういうのも何かあったのかな」。14日後、震災は起きた。今でも年末年始に帰省すると、斎藤さんの父と食事に出掛ける。「息子のように可愛がってもらっている。ありがたいですね」。斎藤家との絆は強い。

 「特別な年」と言う11年。由規は開幕から白星を重ね、5月までに5勝を挙げた。しかし、6月に左脇腹を痛めた。球宴は故郷・仙台での開催。ファン投票で選出され、ぶっつけ本番で投げた。後半戦に入ると、右肩を痛めた。その後も左膝骨折、右肩手術…。度重なる故障に見舞われ、11年9月3日の巨人戦(神宮)を最後に1軍のマウンドから遠ざかった。賛否両論あった球宴登板。由規はきっぱり言う。

 「東北に対する思いは凄く強い。どうしても出たい、投げたいと思った。“あの時こうしていればよかった”という気持ちはありません」

 復興を目指す被災地と同じように、由規の復帰への道のりも「4年」という歳月が流れた。「東北の人たちに“今頃何してるのかな”と思われているかもしれない。復活したところを見せたいし、明るいニュースを届けたい。僕もどうなるか分からないけど倒れても倒れても起き上がって、地道にコツコツやっていきます」。天国から見守ってくれる先輩を笑顔にするために。東北に明るい光を差し込むために――。 

 【由規復活への道のり】

 ▼11年9月3日 巨人戦に先発し、7回2失点で勝利投手。その後、右肩の張りで戦列を離れる。

 ▼12年4月13日 2軍で社会人の富士重工との練習試合に先発し、8回3失点。その後は実戦から遠ざかる。

 ▼同5月27日 左膝下剥離骨折が判明。

 ▼13年4月11日 右肩のクリーニング手術を受ける。

 ▼14年6月14日 イースタン・リーグのフューチャーズ戦で実戦復帰。先発し1回無失点。

 ▼同8月6日 イースタン・リーグの巨人戦に先発した後、右肩の張りを訴える。

 ▼同11月16日 秋季キャンプ中の練習試合、四国社会人選抜戦に先発し2回無安打無失点。5三振を奪う。

 ▼15年2月22日 日本ハム戦(浦添)で3年ぶりにオープン戦登板を果たし、先発で2回1安打無失点と好投。最速は151キロだった。

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