伊藤監督の葛藤、後悔そして誇り…高田高卒業生35人との3年間

[ 2015年3月2日 05:30 ]

卒業生に胴上げされる伊藤貴樹監督 

復興へのプレーボール 陸前高田市・高田高校野球部の1年

 高田高校の卒業式が1日、大船渡市内の同校で行われ、野球部の卒業生35人も高校生活に別れを告げた。伊藤貴樹監督(34)は東日本大震災当日は、生徒の引率教諭として英国に滞在中。3・11を体験していないことによる葛藤や迷いを抱えながら指導してきた。高田高校は4月から陸前高田市内の新校舎に移転するため、震災後の日々を過ごした現在の校舎では最後の行事。伊藤監督はスポニチ本紙に手記を寄せ、卒業生とともに歩んできた3年間を振り返った。

 私には、葛藤があった。それは、震災を乗り越えようと努力している選手たちに対して、「野球も頑張れ」とどこまで求めて良いのか、ということである。

 英語には、「頑張れ」というニュアンスの言葉がない。この言葉の意味を他国の人に説明するのは、確かに難しい。また、頑張っていない人に対して投げかける言葉なのかもしれない。しかし私は、頑張れる人に対して発することのできる言葉でもあると思っている。「頑張れ」という微妙なニュアンスの言葉は、日本人だからこそ感じ合うことができるのではないだろうか。

 だから私は選手たちに頑張ることを求めた。そして彼らはその期待に応えてくれたと思う。朝練習は強制しなかったが、彼らは自主的に行った。大会の直前だけというような期間限定の取り組みではなく雪の降る真冬の早朝であっても、練習に励む姿を何度も見た。

 そんな中、選手も私も自信を持って(昨年)春の県大会を迎えた。結果は、強豪私立校に大敗。実力の差を痛感させられた。私はこの悔しさをバネに、最後の夏に向けてもっと追い込んで頑張ろうと思った。

 しかし、選手たちはそれを望んでいるのだろうか、という疑問も生まれた。なぜなら試合後の彼らの様子が、悔しさよりも絶望感が先行していたからだ。私は、今までやってきたことを信じて、力強くはい上がってほしいと思った。けれど、彼らはそんな単純な割り切りができなかったのかもしれない。頑張ってきた選手だからこその、悩みや迷いがあった。

 ◆伊藤 貴樹(いとう・たかき)1980年(昭55)9月21日、秋田県生まれの34歳。秋田高では主将を務め、早大では4年時に主軸として春秋リーグ連覇を達成。2度のベストナインを獲得した。卒業後の03年に米国へコーチ留学し、帰国後は秋田経法大付(現明桜)、大曲でコーチを歴任。07年に岩手県の教員採用特別選考枠(スポーツ)に合格し、盛岡一に部長として赴任した。12年4月に高田高校に異動し、翌13年4月から監督に就任。父・護朗さん(68)は秋田経法大付の元監督で、現在は秋田県野球協会会長。1メートル79、81キロ。右投げ左打ち。血液型O。

 【元チームメートも応援】

 ▼阪神・鳥谷 伊藤さんは1年先輩ですが、春、秋のリーグ戦を連覇できたことが良い思い出。いろいろと大変なこともあるかと思いますが、甲子園目指して頑張ってください。陰ながら応援させていただきます。

 ▼ジャイアンツ・青木 貴樹さんは一緒に外野を守っていたこともあり、仲が良かった1年上の先輩です。生徒の多くは震災を経験し、野球をできる喜びを普通に野球をやっている人以上に感じていると思います。貴樹さんがそこで監督をされているのは、とても誇りに思います。

 ▼カブス・和田 貴樹は同期で4年の時は一緒に副キャプテンでした。普段は穏やかな性格だけど、締める時はしっかり怒れる人だった。下級生の頃は率先してグラウンド整備もやっていた。何事にも一生懸命で、指導者にぴったりだと思うし、僕もうれしいです。 

 ▼復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年 東日本大震災で甚大な被害を受けた同校硬式野球部の姿を通して、被災地の「現在」を伝える連載企画。2011年5月11日に第1回がスタート。今回が48回目となった。なおスポニチと毎日新聞社がタブレットとスマートフォン向けに展開する新媒体「TAP―i」では5~11日、これまでの記事・写真を7回にまとめ、掲載する。

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