秋山前監督エピソード 若手時代、重い背番号で発奮「絶対、若い番号を」

[ 2014年11月7日 07:30 ]

西武時代の秋山幸二

 2014年10月30日、今年のプロ野球がフィナーレを迎えた。この日に行われた日本シリーズ第5戦で勝利したソフトバンクが4勝1敗で阪神を退け、3年ぶりの日本一に輝いた。

 本拠地のヤフオクドームで計10回、胴上げされた秋山幸二監督。シリーズ前から、今季限りの監督勇退を表明しており、まさに万感の思いを抱きながら、日本一の監督となった。今回はこの秋山監督の現役時代を、エピソードを交えながら、振り返ってみたい。

◎身体能力抜群のアスリート系選手のパイオニア

 1962年4月6日、熊本県八代郡で生まれた。父・辰芳さんはハイジャンプの、母・ミスエさんは砲丸投げの元選手で、秋山が運動神経抜群なのもうなずける。

 野球との出合いは、辰芳さんがラワン材をナイフで削って作った長さ30センチのバットで遊んだのが、きっかけだ。その後、小学3年生の時に少年野球チームに入り、中学、高校を経て運動神経抜群のダイヤモンドの原石は、ゆっくりと磨かれていった。

 1980年、熊本県屈指の進学校である八代高校の3年生となった秋山は主将兼エース兼四番打者と、文字通り大黒柱としてチームを牽引。母校を創立以来の県大会決勝戦へと導く。後に西武で同僚となる、現ロッテ監督の伊東勤がいた熊本工業高校に負け、惜しくも甲子園出場はならなかった。しかし、プロのスカウトの評価は下がることはなく、プロ12球団スカウトの熱い視線が注がれていた。

 ところが秋山は「プロでやっていく自信がない」と九州産業大進学を決意。ドラフト会議でも、進学希望が強いという理由で、指名を避けた球団が多かった。それでも西武、巨人、広島、日本ハムがプロ入りを熱心にすすめ、西武以外は投手として、秋山の才能を評価していた。

 ところが、西武のスカウトの「君をバッターとして育ててみたい」という言葉に、秋山の気持ちが動く。もともと打つ方が好きだった秋山は、これで気持ちが決まった。契約金2000万円、年俸240万円(金額はいずれも推定)で、西武ライオンズ入団が決まった瞬間でもあった。当時の根本陸夫監督は183センチ80キロの恵まれた体躯の秋山をひと目見て、「野球をやっていなかったら、オリンピックの十種競技の選手になれた」とぞっこん。それだけ、光るものがあったのだろう。

◎「絶対に若い番号を……」と誓った若き日

 1981年、西武のユニフォームに袖を通した秋山の背番号は「71」。ズシリと重い番号に「情けなかった」と振り返る。1年目の後半、9月29日の日生球場での近鉄戦。プロデビューを果たした秋山に対して、スタンドから「オマエはコーチか!」と、痛烈なヤジ。温厚な秋山も、これにはさすがに頭にきて、「絶対、若い番号をもらってやる」と誓ったという。

 1年目、早くも1軍デビューを果たした秋山。しかし、シーズン終了の3試合だけで、5打数1安打2三振という記録が残っている。だが、このプロ初安打は三塁打。将来の秋山の成長を暗示させるものだった。

 2年目の秋山は、就任したばかりの広岡達朗監督に勧められ、アストロズ1Aのサンノゼ・ビーズに派遣された。アメリカ野球のすさまじいサバイバルレースのなか、秋山の実力は伸びていく。3年目もアメリカ留学に参加。本場の選手に混じって本塁打を連発する秋山に、メジャーリーグ関係者からスカウトの手が伸びた。正式にオリオールズから西武に対して秋山の譲渡の申し入れがあったという。

◎どこに華がないのか、わからない活躍ぶり

 メジャーから声がかかるほど成長した4年目の秋山は、54試合に出場とどまるも、5年目の1985年は130試合に出場、40本塁打を記録。細身ながら本塁打を量産する姿に、これまでのホームランバッターの概念を変え、若き長距離打者誕生に、ファンの期待は高まった。

 その秘訣は、秋山自身の応援歌の歌詞にもある「鉄人リスト」だ。人並外れた鉄人のようなリスト(手首)の強さは、外国人選手も驚くほどで、打球はジェットミサイルのように、スタンドに消えていった。

 その後の活躍はご存じのとおり。清原和博、デストラーデと組んだクリーンアップは、「AKDトリオ」とよばれ、西武ライオンズ黄金時代を築き上げた。気付けば背番号は「24」と若返り、1987年には「1」と、ヤジられることない軽い番号に変わっていた。1シーズン30本塁打と50盗塁を同時に達成するなど記録にも、日本シリーズで披露したバック宙など記憶にも残る選手となった。

 その後、1994年には生まれ故郷九州の球団・ダイエーに移籍。黄金時代の西武から、弱小球団であったダイエーへの移籍は、秋山に新たな刺激を与え、若手選手を背中で引っ張った。

 秋山を見て小久保裕紀が育ち、後を追って松中信彦、城島健司、斉藤和巳、井口忠仁(現・資仁)らが成長。後輩たちがチームの中心選手になっていっても、35年ぶりの日本一となった1999年の日本シリーズでは秋山がMVPに輝くなど、現役生活の最後まで輝きを放った。

 引退後は解説者やコーチ、2軍監督を経験して、2008年10月、満を持してソフトバンクの監督に就任した。その野球人生は、日本一の座に就いた監督として、ふさわしい道であった。(参考文献:『ホームラン』日本スポーツ出版社)
(週刊野球太郎編集部)

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