久保田 第二の人生打撃投手も…「本当はまだまだ現役でやりたい」

[ 2014年10月4日 05:30 ]

引退会見を終えた久保田(左)は女性球団職員から花束を受け取る

 阪神の久保田智之投手(33)と、日高剛捕手(37)が3日、西宮市内の球団事務所で現役引退表明した。05年の阪神のリーグ優勝を支た「JFK」の一角として活躍した久保田は今年2月に手術した右肘が完治せずに引退を決意。07年にはプロ野球記録となるシーズン90試合に登板。鉄腕の異名で猛虎の黄金期を支えた背番号30が、惜しまれながらタテジマに別れを告げた。

 プロ野球選手としての最後はスーツ姿だった。今にも涙がこぼれ落ちそうなぐらいに目は真っ赤。それでも久保田は奥歯をかみしめ、机の下では拳を握り締めて耐えていた。タテジマは脱いでも、その引退会見で見せた姿は、マウンドと同じだった。

 「ここ数年は成績が残せなかった。右肘の具合もそこまで良くならなかった。これで現役生活を続けるには、厳しいというのがあった」

 ここ数年は苦悩の日々だった。右肩痛、右手甲の骨折、右肩痛、右肘痛…。度重なるケガとの戦いだった。2度目の右肩痛を発症した09年には選手生命の危機にも直面していた。「もう投げられないかもしれない」と医師に告げられたこともあった。何度も窮地に追い込まれながら復活を遂げてきた。

 「常に前を向いてやってきた。(90試合登板の07年も)しんどさとかはまったくなかった。投げたい、投げたいだった」

 苦難を乗り越え、金字塔も打ち立てた。03年には主に先発として5勝を記録。05年にはジェフ・ウィリアムス(現駐米スカウト)、藤川球児(現カブス)と最強の救援陣を形成し、名前の頭文字をとって「JFK」と呼ばれた。守護神としてリーグ優勝に貢献し、胴上げ投手にもなった。

 セットアッパーに配置転換された07年にはプロ野球記録のシーズン最多、90試合に登板した。

 「久保田なら延長になっても投げられる。だから抑えにした。1イニング限定ではない。本当によく投げてくれた。監督としては心強かった」

 「JFK」の生みの親である当時の岡田監督は特に「K」の貢献度を称えていた。

 登板機会に恵まれなかったときには「何で投げさせてくれないのですか?」と指揮官に直談判したこともあった。投げることにこだわり続けた鉄腕も最後はケガに勝てなかった。

 9月29日には右肘を検査。その検査結果を受けて翌30日に現役引退を決断した。

 「本当は、まだまだ現役でやりたい。未練はある」

 本音は隠さなかった。ただ最後は晴れやかな表情を浮かべた。

 「家族、仲間、阪神ファンに感謝したいです」

 06年にベビーカーから落ちそうになった愛娘をかばって右手甲を骨折。その子は9歳になった。プロ生活を陰で支えた夫人も「家族のために本当に頑張ってくれました」と声を詰まらせた。

 第二の人生は球団の打撃投手としてスタートする可能性が高い。一時代を築いた剛腕には再び投げる機会が待っている。

 ◆久保田 智之(くぼた・ともゆき)1981年(昭56)1月30日、埼玉県生まれの33歳。滑川で3年夏に甲子園出場。常磐大を経て、02年ドラフト5巡目で阪神に入団。03、05年のリーグ優勝に貢献。07年に歴代最多の90試合に登板し、07、08年に最優秀中継ぎ投手に輝いた。昨季は17試合に登板し、0勝2敗の防御率5・57。1メートル81、95キロ。右投げ右打ち。

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