甲子園を目指した青春は海を越えて 外地からの挑戦者たち

[ 2014年8月20日 08:14 ]

 第96回全国高校野球選手権大会はようやく全49代表が登場し終えた。現在の「49代表制」になったのは1979(昭和54)年の第61回大会から。それ以前は5年ごとの記念大会を除き、甲子園に出場するには各都道府県大会を勝ち抜き、さらにいくつかのブロックにわかれた地方大会を勝ち上がらなければならなかった。

 一方で戦前には、満州、朝鮮、台湾の「外地」の代表校にも全国大会への参加が認められていた。満州と朝鮮は1921(大正10)年から、満州は1923(大正12)年から参加が認められ、毎年、代表校を内地に派遣した。

 1921(大正10)年の第7回大会に満州代表として初出場したのが大連商だ。大連商は、その大会でいきなり準決勝に進出。さらに1926(大正15・昭和元)年の第12回大会では円城寺満と桜井修が中心となり決勝に進出した。惜しくも優勝は逃したが、内地勢からは一目置かれる存在となった。

 朝鮮の中で有力チームだったのが5回出場の京城中。最高成績はベスト8だった。

 台湾勢では春夏合わせて最多7回の出場を誇る台北一中と5回出場の嘉義農林が鎬(しのぎ)を削った。特に嘉義農林は1931(昭和6)年の第17回大会が初出場で、しかも決勝に進出。決勝では大投手・吉田正男擁する中京商に惜しくも敗れ準優勝に終わり、初出場初優勝、最初で最後の外地の優勝は成し遂げられなかった。ちなみに、勝った中京商はこの大会を皮切りに「夏3連覇」の偉業を達成することになる。

 この嘉義農林の「初出場準優勝」という偉業はいまでも台湾では伝説として語り継がれている。今年2月には、嘉義農林野球部の栄光を描いた映画「KANO」が台湾で公開され大ヒットを記録。2015年1月末には日本でも公開される予定になっている。

 このように、外地でも盛り上がりを見せていた甲子園大会だったが、戦争の色が濃くなると状況は一変。上述した満州代表の常連・大連商にしても資金難などの理由で1935(昭和10)年に野球部は解散。その後、太平洋戦争のために大会が中止になる1941(昭和16)年をもって「外地からの挑戦」は幕を閉じた。(『週刊野球太郎』編集部)

 ▼スマートフォンマガジン『週刊野球太郎』(http:/yakyutaro.jp)は、夏の甲子園のみどころや『砂の栄冠』など高校野球漫画でおなじみの三田紀房先生のインタビューなど、盛り沢山な甲子園情報に加え、今月は石井裕也(日本ハム)のインタビュー記事を掲載しています。

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