NTT四国廃部から15年…松山フェニックス 初出場初勝利

[ 2014年7月23日 05:30 ]

<全足利クラブ・松山フェニックス>8回1死一、三塁、打者・秋山繁の時、暴投で生還する松山フェニックスの三走・越智。投手・横山

都市対抗野球第5日・2回戦 松山フェニックス2―1全足利クラブ

(7月22日 東京ドーム)
 2回戦3試合が行われ、初出場の松山フェニックス(松山市)が、36年ぶりに出場した全足利クラブ(足利市)を2―1で制した。大会本部によると、都市対抗でのクラブチーム対決は記録が残る1963年の第34回大会以降では初めてという歴史的一戦だった。31度目出場の三菱重工神戸(神戸市)がJFE西日本(福山市・倉敷市)に1―0でサヨナラ勝ち、西濃運輸(大垣市)が7度の優勝を誇る東芝(川崎市)を5―2の逆転で下し、それぞれ3回戦に勝ち上がった。

 チームカラーの赤に染まった三塁側スタンドが揺れた。創部15年目でつかんだ都市対抗初出場初勝利。地鳴りのような歓声がこだまする中、勝利監督インタビューに答える千原宏之監督の声は上ずった。

 「感無量。勝てて本当に幸せ。夢のようです。うちの選手を褒めてやってください」

 99年、愛媛県内唯一の企業チーム「NTT四国」が廃部。「社会人野球の灯を消してはならない」と千原監督自ら中心となって尽力し、翌00年に松山フェニックスは誕生した。選手はNTT四国のほか、個別に集めた。当然、企業チームより練習環境も格段に劣る。専用グラウンドはなく、全体練習は水、土、日曜日だけ。それでも仕事の都合で、全選手がそろうことはまれだ。

 チーム運営は松山市や地元企業の支援、後援会費で賄うが、潤沢ではない。都市対抗出場が決まると、遠征費用をためるため、ナインは街頭に立って募金活動も行った。

 そんな弱小チームが15年で着実に力を付け、四国銀行、JR四国の2強を破り、初めて四国代表の座を獲得した。だからこそ、初戦の相手が同じクラブチームの全足利クラブに決まると、指揮官は「お互いの苦労は知っている。一番当たりたくなかった」。それでも、同学年の全足利クラブの後藤康友監督と健闘を誓い合った。

 相手のミスから奪った2点をエース松井が2カ月前に覚えたスプリットを駆使し、無四球完投で守り抜いた。初回は3者連続空振り三振でチームに勢いをつけ、歴史的勝利の原動力となった新人右腕は「まずは1勝できた。松山が盛り上がってくれれば」と満面の笑みだった。

 この日は、初代監督、小野正一さん(享年42)の遺影をベンチに掲げ戦った。小野さんは千原監督とともにチームの立ち上げに奔走したが、02年2月、肺がんで死去。誰よりも都市対抗出場を夢見ていた。

 チーム名の「フェニックス」は「一度、野球を諦めざるを得なかった人間がよみがえろう」と名付けられた。松山の不死鳥軍団が、東京ドームで華麗に羽ばたいた。

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