赤い空から3年…東陵 青い空の下で甲子園初勝利を

[ 2014年3月11日 05:30 ]

甲子園初勝利へ、数少ないナイター照明の下で練習に励む東陵ナイン

 東日本大震災から、11日で3年を迎える。21日に開幕する第86回選抜高校野球大会に初出場する東陵。同校のある宮城県気仙沼市は震災で甚大な被害を受け、今なおその爪痕が深く残る。震災後、市内の高校が甲子園に出場するのは初めてで、震災に傷ついた街に希望を届けた。被災した部員も多く、試練と逆境に立ち向かい続けたチームが、悲願の甲子園初勝利を目指す。

 3年の月日が流れた。それでも、これから先、決して消えない光景がある。庄子宗男野球部長は言った。

 「あの日は、夜中もずっと空が赤かった…」

 2011年3月11日。気仙沼市の沿岸部、鹿折(ししおり)地区は、津波に襲われた。燃料タンクの重油などに引火し、町は火災に包まれた。死者1041人、行方不明者234人(14年2月27日現在)。今もなお、約1万人が仮設住宅で暮らしている。

 同地区の高台に、東陵高校はある。野球部の主力メンバーは埼玉遠征に向かう途中の東北自動車道の仙台市付近で、控えメンバーは同校グラウンドで練習中に地震に遭った。千葉亮輔監督は「あの時は生きることが第一だった。甲子園に出場するとか、思ってもいなかった」と回想する。電気や水が途絶えた寮で、選手たちは大広間に布団を敷き身を寄せ合った。一晩中、窓の外は火事のために明るかった。大半の選手は一睡もできなかった。

 活動再開は4月16日だった。学校から車で約20分の距離にある専用球場は無事だったが、地盤沈下を起こしていた。雨水が用具室に流れ込み、木製バットや練習球が使えなくなった。

 5番打者としてチームを支える伊藤匠哉は3年前、同校と同じ鹿折地区にある鹿折中に通っていた。自宅が全壊し、現在の住まいは「冬でもすきま風が吹く」という仮設住宅。大量のカメムシにも悩まされ「野球をするなんて夢のまた夢だと思っていた」という。

 伊藤と同じ鹿折中出身の千葉優利は、自宅が火事で全焼した。両親の安否も分からない中で避難した中学校では、自らが着ていたジャンパーやネックウオーマーを寒がる老人に手渡した。翌朝、家族全員の無事が確認され、心から安どした。

 だが、その翌年の冬、父・利晴さんが、くも膜下出血のため、50歳の若さで亡くなった。気仙沼高校で野球に打ち込んだ父は、自宅にマウンドを造るほどの野球好きだった。厳しい指導を受け、衝突することは日常茶飯事。「文句を言われるのが嫌で“だったら野球をやめる”と言ったり…」。病院で寝たきりになった父をみとる際に、手を握って伝えた。「お父さん、甲子園に行くから!」。小さい頃から目標だった東陵進学に、迷いはなかった。入学後は寮に入らず、現在は母・美和さんと2人で仮設住宅暮らし。夜に素振りをすれば、近所の仮設住宅の住民から「頑張れ」の声が届く。

 現在の65人の野球部員は震災後に、東陵を選んだ。冬は16キロの山道を走る過酷なメニューにも音を上げず、退部者はゼロ。昨秋の東北大会では同校初となる準優勝を成し遂げ、歴史を塗り替えた。千葉監督は「震災があってもうちに来てくれた。いい選手に恵まれた。技量じゃなく気持ち。ここでやるという覚悟を決めてきてくれた」と話す。指揮官が東陵3年時の88年夏に甲子園出場を果たしたが、初戦敗退を喫した。26年分の思いを込めて、山崎誠悟主将は「格好つけず、泥くさく、粘り強い野球をする」と力強く宣言した。

 沿岸部では土地のかさ上げ工事が続き、復興は道半ば。決して風化させてはならない。それでも悲しいかな、人間の記憶は風化していく。伊藤は言う。「被災地から甲子園に出ることで、もう一度、視線がこっちに来てくれる。被災した人に勇気を与えたい」。赤い空を見てから3年。甲子園球場と故郷は、今は青い空でつながっている。

 ▽東陵 1948年(昭23)創立の私立校。全校生徒236人(うち女子37人)。1983年(昭58)に創部した野球部の部員は65人。甲子園には88年夏に初出場も初戦敗退。主なOBは井上純(元ロッテ)、相原和友(楽天)。所在地は宮城県気仙沼市大峠山1の1。吉田俊雄校長。

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