野茂氏と同じく殿堂“一発合格”スタルヒン氏の壮絶野球人生

[ 2014年1月21日 08:20 ]

大映時代のスタルヒン

 先日発表された野球殿堂入り選手。日米通算201勝を挙げた野茂英雄氏は、候補1年目で"一発合格"を決めた。時節柄、受験生たちにとっては羨ましい限りだろう。59年に創設された野球殿堂の長い歴史のなかで、その一発合格者は野茂氏を含めて3人しかいない。94年の王貞治と、もう1人が60年に殿堂入りしたはビクトル・スタルヒン氏。日本プロ野球黎明期に活躍し、楽天・田中将大も驚く史上最多のシーズン42勝を記録した伝説の大投手だ。

 今から約100年前、ロシア帝国時代にウラル山脈付近で生まれた彼は、ロシア革命後に迫害を受け、家族とともに流浪の旅へ。6歳の時に北海道旭川に辿り着いた彼は野球と出会い、17歳の頃には旭川中でエースとして大活躍。チームを全道大会準優勝に導いた。だがその時、父親が殺人事件を起こして服役。学費も払えない貧しい生活を送ることになる。それでも当時の旭川中関係者は「何とか甲子園出場を」と盛り上がり、スタルヒン氏に資金援助していた。

 そんななか、今度は巨人が旭川中から引き抜きを画策。1934年に開催される日米野球に目玉となる中等学校の投手を入れようと、プロ入りを勧めたのだった。当然、旭川中側からは非難の声があがり、巨人のスカウトが旭川に来ると「人さらいに渡すな」と険悪なムードになったという。この騒動に嫌気がさしたスタルヒン氏は突然、姿を消してしまった。だが、ほとぼりが冷めぬまま突如として当該の日米野球に登板。結果としてプロ入りを果たしたのだった。この件の真相は今でも明らかになっていない。

 プロ入りしたスタルヒン氏は、戦時中も「須田博」と改名するなどして外国人ながら日本プロ野球に骨を埋めることになる。巨人退団後は他チームを転々したが、55年には日本プロ野球史上初の300勝をマークするなど、息の長い活躍をみせた。

 57年1月12日、自動車事故でこの世を去ったスタルヒン氏。旭川中の同窓会に車で向かう途中だったという。しかし事故はその同窓会の会場とは逆方向で起きており、こちらも真相は闇の中。

 こんな数奇な野球人生を送ったスタルヒン氏だったが、1960年に野球殿堂入りとなった。「日本野球の発展に貢献した人物の功績を永遠に讃える」という選考基準に相応しい活躍をみせてくれたことは間違いない。野茂の殿堂入りとともに、意味は違うが国境を超えたもう一人の選手、スタルヒン氏に思いを馳せたい。(スマホマガジン『週刊野球太郎』編集部)

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