厳しくて新しかった名将・川上 長嶋さん「偉大」王さん「手本」

[ 2013年10月31日 06:00 ]

長嶋(右)王(左)と3ショットの川上監督

川上哲治氏死去

 ONも川上氏の死を悼んだ。福岡市内の自宅前で報道陣に対応したソフトバンクの王貞治球団会長は「とにかく勝負に徹した人だった。僕もバントしたし、長嶋さんもやらされた。9年続けて勝てたのは川上さんの勝利への執念が生み出した歴史的記録」と指揮官の功績を称えた。

 監督として歴代最多となる11度の日本一。川上氏は監督就任1年目の61年に米フロリダ州ベロビーチでキャンプを張り、それまで日本になかった組織的なドジャース戦法を導入した。その旗振り役としてシーズン途中、中日OBの牧野茂コーチを招へい。移動日も練習を命じた。南海を相手にしたこの年の日本シリーズ期間中、2勝1敗で迎えた第4戦が中止になると、土砂降りの多摩川でバットを振り込ませた。王会長は「突然全員集合が掛かり、脇が甘いからと浴衣の帯で縛られたこともある」と述懐した。

 選手に厳しさを植え付ける一方、球界初の専属広報を置き「哲のカーテン」と呼ばれる報道規制を敷いた。オフは岐阜県の禅寺、正眼寺にこもった。のちに和解する広岡達朗が自分の打席で三塁走者の長嶋が度重なる本盗を企てたことに腹を立てて造反した64年オフ、現役時代の背番号16との決別を決意。77に変えた翌65年から不滅のV9がスタートする。

 「石橋を叩いても渡らない」と言われた手堅い野球に面白くないという批判もあったが、ぶれることはなかった。信念の采配。王会長は「手本にしていた。その影響を受けた人が野球界で監督、コーチとして活躍している」と述べる。厳しいだけでなくスランプの時に甲子園の阪神戦が中止になり、京都・祇園のお茶屋「一力亭」に連れて行ってもらったエピソードも披露した。

 現役引退と同時に75年に監督を禅譲された巨人の長嶋茂雄終身名誉監督は「巨人軍の4番打者として、監督としてバトンを受け、その偉大さを感じた毎日でした。勝負にも選手教育にも一切の妥協を許さない厳しさで前人未到のV9に大きな役割を果たされました。巨人軍、プロ野球のあるべき姿を教わるなど、私自身大きな影響を受けた先輩の一人です」とコメントした。

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