川上氏が手本だった 野村克也氏 名将への第一歩は対巨人完敗だった

[ 2013年10月30日 18:48 ]

1958年当時の野村氏

川上哲治氏死去

 巨人の監督を14年務め、V9を含む11度の日本一に輝いたた川上哲治氏を悼み、南海、ヤクルトでチームを優勝に導いた元楽天監督・野村克也氏は「まさに神様だった」と故人を悼んだ。

 野村氏は「野球少年だったので、赤バットの川上、青バットの大下に憧れていた。京都の田舎で巨人ファンだった」と、戦後の荒廃の中で子供たちの希望のシンボルだった、選手時代の川上氏をなつかしそうに振り返った。

 野村氏が南海入りしたのは1954年(昭29)。当時、巨人の大スターだった川上氏とテスト生入団でブルペン捕手のような扱いだった野村氏とは本当に「遠い存在」だった。やがて選手としてパ・リーグを代表する選手となった野村氏は、選手として川上巨人と日本シリーズで3度対戦したがいずれも敗れた。

 野村氏と川上氏が直接監督として対戦したのが73年の日本シリーズ。セ・リーグ9連覇を最終戦で達成し、その強さにかげりを見せていた巨人に対し、野村氏率いる南海がシリーズで巨人の日本一を食い止める可能性があるとされたが、結果は1勝4敗。力ではなく、勝ち方を知っている川上巨人の前に歯が立たなかった。

 以来、野村氏は川上氏を意識するようになった。「監督を長くやってきたが、常にV9時代が頭にあった。川上さんだったらどうするかと考えて、川上さんをかがみにした」。
南海の監督を解任され、ヤクルトの監督として復帰し3度の日本一、4度のリーグ優勝を勝ち取った。監督としての通算勝利数も川上氏の1066勝を上回る1565勝を記録したが、その底流にあったのは、選手時代の恩師である故鶴岡一人監督の親分・子分の関係で選手を動かす采配ではなく、川上氏の勝負に徹する厳しさだった。

 「もう一度お会いして、真の野球学を直接聞いてみたかった。これが野球だというお手本を示していた」と野村氏は静かに語った。

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