ドラフト制度の盲点ついた悲劇!大人に振り回された高校生左腕

[ 2013年10月24日 12:50 ]

1968年9月9日、巨人入団発表で巨人の正力亨オーナー(右)から巨人の帽子をかぶらせてもらう新浦寿夫(右から2人目)

2013年ドラフト

 野球を志した者なら誰もが夢見るプロ野球選手。ドラフト会議はその夢への扉が開く瞬間ともいえるだろう。しかし今から45年前、そのドラフトのルールの盲点をついた、劣悪な争奪戦が繰り広げられていたことを知っているだろうか。

 1968年の夏の甲子園は、ひとりのヒョロっとした長身左腕に注目が集まっていた。静岡商を準優勝に導いた新浦壽夫である。巨人を皮切りに日本のプロ4球団の他、韓国球界でも活躍した彼は当時、まだ高校1年生だった。現在のドラフトでは、その翌年3月卒業見込みの選手でなければ指名できないルールになっている。しかし当時はそのような規則もなく、さらに新浦が韓国籍であったことから、日本球界のみならずメジャーリーグをも巻き込んだ激しい争奪戦が繰り広げられたのだった。

 ドラフトが初めて開催されたのは1965年。当時はドラフトについて世間の認知度は低く、ルールも曖昧な部分が多かった。そんな状況もあり、日本国籍を持たない新浦は外国人選手とみなされ、ドラフトにかける必要はないという解釈がまかり通っていた。さらに当時の規約を逆手にとって「新浦が高校を中退すれば、晴れてどの球団も自由に交渉できる」という、大人たちの事情による身勝手な争奪戦が始まった。

 まずは巨人が新浦の親族へ挨拶を済ませ、それに続いて他球団も「今のうちに高校を中退すれば、ドラフトで定められた上限以上の契約金を払う」と勧誘し、さらにはサンフランシシスコ・ジャイアンツも大リーグ入りを勧めるなど、日米入り乱れた大変な騒動に発展したという。

 新浦は親族と話し合いを重ね、「ドラフトにかかると、好きな球団に入団できるとは限らない」との理由で高校を中退。数球団と交渉した後、最終的には巨人にドラフト外で入団した。新浦はプロ野球選手になった喜びの一方で、自分が韓国人だということが日本中に知れ渡ったことに傷心したという。17歳の少年のプライバシーを無視した大人たちの振る舞いはあまりにも身勝手であり、新浦少年の心に負った傷は相当なものだったはずだ。

 さらに巨人は新浦とともに、同じ韓国籍の松原明夫もドラフト外で獲得。この一連の巨人のやり方を問題視する声があがり、この新浦事件を契機にドラフト制度は改正された。「日本で出生し、日本の学校を出た者は外国人とみなさない」というルールが加わることになったのだった。

 巨人に入団後の新浦は、1軍で活躍するまでには時間を要した。入団6年目の1976年には50試合に登板し、優勝に貢献。1977、1978年には2年連続で最優秀防御率をマークするなど、先発に抑えに大車輪の活躍をみせた。その後は韓国に渡りチームのエースとして活躍。さらには1987年に再び日本プロ野球界に復帰し、当時の大洋(現DeNA)に入団。自らを解雇した巨人との試合では、ひときわ燃える投球をみせてくれた。その後はダイエー(現ソフトバンク)、ヤクルトと渡り歩き、最終的には41歳まで現役を続けた。新浦の野球人生は、まさに波瀾万丈であったといえよう。(『野球太郎』編集部)

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