一芸入団?他競技・他分野からの「サプライズ指名」

[ 2013年10月24日 13:30 ]

1968年12月2日、東京の入団会見で「背番号ぐらい盗塁を」と飯島秀雄(中央)。左は武田和義球団代表、右は濃人渉監督

2013年ドラフト

 全国の野球選手の中で、ほんの一握りのエリートだけが名前を呼ばれるプロ野球ドラフト会議。ところが歴代のドラフトを振り替えると、他競技・他分野からのサプライズ指名の例がいくつもあった。

 ◆陸上短距離選手からプロ野球選手へ

 1968年のドラフト会議でロッテオリオンズが9位で指名したのが、元100メートル日本記録保持者で、東京・メキシコ五輪にも出場した飯島秀雄。指名の瞬間、会場がどっと沸いたという。

 役割は「世界初の代走専門選手」。デビュー戦、9回裏無死一塁の場面で代走として出場すると見事に初盗塁を成功させ、サヨナラのホームも踏んで大きな話題を集めた。結局、プロ3年間で23盗塁を決めたものの、1軍戦では打席に立つことも守備につくこともなく、本当に「代走専門選手」として現役を全うした。

 ◆やり投げ選手からプロ野球選手へ

 高校時代は陸上部に所属し、やり投げで国体にも出場した経歴を持つのが、1991年ドラフトで西武から8位指名を受けた日月鉄二。やり投げで鍛えた「強肩」を見込まれ、最初は投手として、後に外野手に転向したが、一軍での出場経験がないまま、1992年に引退した。

 ◆力士からプロ野球選手へ

 「元力士」の肩書きからプロ野球選手となったのが市場孝之。中学卒業後、1986年に佐渡ヶ嶽部屋に入門し、琴市場(こといちば)の四股名で初土俵を踏むが、ケガのため1987年9月に廃業した。

 その後、1988年に国際海洋高校へ入学すると野球部に所属。1989年にロッテオリオンズの練習生になると、1991年のドラフトでロッテから7位指名を受けた。だが、1軍での出場経験がないまま、1993年限りで引退している。

 ◆大工からプロ野球選手へ

 「元大工」の肩書きを持つのが、ダイエー、ヤクルト、近鉄、巨人と4球団で活躍した田畑一也だ。

 田畑はもともと、社会人野球の北陸銀行に所属していたが、ヘルニアと肩の故障に悩まされ、3年目に退部。その後、実家の「田畑建工」で大工をしていた。だが、遊びで始めた草野球で1年ぶりに投球したところ肩の痛みがなく、力試しで福岡ダイエーホークスの入団テストを受けたところ見事合格。1991年のドラフトで12球団最後の指名となるダイエー10位で名前が呼ばれた。

 なお、この年のドラフトをもって、司会進行を務めていたパンチョこと伊東一雄氏が引退することになっていたため、伊東氏が名前をコールした最後の選手となった。読み上げた所属先は「元北陸銀行」ではなく「田畑建工」。ご両親が喜ぶだろう、という、ダイエースカウトの粋な計らいだった。

 ◆ソフトボール選手からプロ野球選手へ

 記憶に新しいのが、2011年ドラフトで北海道日本ハムファイターズが7位指名した、「早大ソフトボール部捕手」大嶋匠。

 大嶋は、新島学園高校で高校総体と国体で優勝。早大進学後はソフトボールU-19日本代表で4番を務め、大学リーグの公式戦では13試合連続本塁打、大学通算80本塁打を記録するなど、ソフトボール界では知らぬ者のいない強打者だった。過去、軟式野球からプロ入りした例はいくつもあったが、硬式経験のないソフトボール選手の入団は史上初。大きな注目を集めたが、2013年現在、まだ一軍での出場経験はない。

 全国に情報網が行き渡り、「サプライズ」が起こしにくいと言われている現代。それでも2011年の大嶋のような例もあり、まだまだ世の中には「隠れた」才能があるハズだ。今年のドラフトでもぜひ、野球ファンも、他球団のスカウト陣も驚くような指名を期待したい。(『野球太郎』編集部)

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