選手に愛され星野監督7度舞い「オレは何か持ってるね」

[ 2013年9月27日 06:00 ]

<西・楽>優勝し、胴上げされる楽天・星野監督

パ・リーグ 楽天4-3西武

(9月26日 西武D)
 涙はない。穏やかな笑みを浮かべながら、楽天の星野監督はゆっくりと歩を進めた。まるで、慈しむかのように――。66歳。長嶋茂雄氏の64歳を超える史上最年長優勝監督となった。親子以上に年齢の離れたナインが、マウンド付近で歓喜の輪をつくっている。一人一人と力いっぱい抱擁した。頭を、肩を思い切り叩いた。今季34度目の逆転勝ちでの栄冠。背番号77のユニホーム姿の闘将は7度、宙を舞った。

 「本当かな。まだ信じられない。頬をつねりたいぐらい。でも現実に宙を舞ってね。“ああ、やったんだ”と。オレは何か持ってるね。東北の皆さんの苦労を少しでも和らげようと思ってやってきた。(選手は)きょうという日を楽天の歴史の一ページに、きっちりとしるしてくれた」

 長かった。それでいてあっという間の3年間だった。「過去2度の優勝とは全然違う。最初は、どこから手をつけようかと思ったよ」。チームを一つにするために、戦う集団にするために。11年秋から岡山県倉敷市で球団初の秋季キャンプを敢行した。球団初年度から予算の都合で実施されていなかったが、指揮官が「俺が金を出す。日程を組んでくれ」と球団に直訴した。キャンプ中は選手同様に朝5時に起床。時には自らバットを手にし、40歳以上も年が離れた選手にノックの嵐を浴びせた。芽を出す土壌を自ら耕した。「若者を育てていくのは男のロマン。あの時“磨けば光る”と思ったやつが2人いた。鈍く光っていた」。それが、当時無名だった銀次と枡田。今や「星野チルドレン」として中軸を担うまでに成長した。

 「孫と言ったら年を取りすぎているし、子どもにしたら若いしなあ」

 87年、中日の指揮官に就任した時は40歳の「青年監督」だった。時代は平成。3球団目の監督となった星野監督は、何より選手との距離を縮めることに腐心した。就任2年目の12年5月。交流戦で訪れた広島で、正捕手の嶋に「周りを誘って好きなもの食ってこい」と10万円を渡した。その後も外国人選手、主将の松井らとも杯を酌み交わした。親しみを込めて、選手はニックネームで呼ぶ。「シーサー(伊志嶺)」「サブちゃん(福山)」…。グラウンドで気軽に言葉を交わす姿は、中日、阪神監督時代は絶対になかったものだ。

 もちろん、闘志なきプレー、消極的なミスは許さない。それでも「今の子は萎縮しちゃうから。ワンクッション置いた方がいいんだ」。直接選手ではなく、コーチを怒る。「困っても後ろに下がるな!前に出て失敗しろ!」。3年目。星野イズムは完全に浸透した。試合後、右翼スタンドだけではなく一塁ベンチのナインからも「星野コール」が湧き起こったことが、それを証明していた。

 今月15日。仙台市内の自宅を、斎藤と松井のベテラン2人が訪ねてきた。座骨神経痛などに苦しみながらも必死に闘う指揮官のために、懇意の整体師を連れてきてくれたのだ。腰をもまれながら、星野監督は思った。「俺は幸せ者や」と――。

 「今、そんなこと聞くなよ。ホッとしているんだから」。試合後、大コールを浴びながらのインタビュー。CS、日本シリーズへの抱負を聞かれた歴戦の将は、そう言って再び頬を緩めた。そして最後に、スタンドのファンに向かって叫んだ。「この熱い応援が、どれだけ力になるか。本当にありがとう!」。監督就任の際の第一声でもあった「東北を熱くする」との約束を、いま果たした。

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2013年9月27日のニュース