斎藤隆 復興への思いが力に!すべてを懸け日本一を仙台で

[ 2013年9月27日 09:34 ]

<西・楽>優勝しマウンドで記念撮影を行う田中(前列右)ら楽天ナイン

パ・リーグ 楽天4-3西武

(9月26日 西武D)
 43歳の目は興奮で真っ赤だった。8回1死、ハウザーが左肩の違和感を訴えて降板。緊急のマウンドに上がった斎藤は5球、打者2人を封じて、田中へバトンを渡した。言葉にならない雄叫び。日本に、東北に、地元の楽天に入って、本当に良かった。

 「興奮を抑えるのが大変。東北の歴史的な瞬間に入れる喜び。最高です。後ろには史上最強の投手が控えている。気持ちでいきました」

 集大成ともいえる一年だった。「楽天は何色にも染まっていないことが無限の強さ。勢いの前に経験は意味ないです」。8年ぶりの日本球界復帰。日米での体験を伝えることが、一回りも二回りも年齢の違う若手に、足かせになってはいけないと考えた。投手会では率先してビールをつぎ、スタッフの肉も焼いた。

 Kスタ宮城から自転車で15分ほどの仙台市若林区に実家がある。被災地の仙台に本拠を置く楽天入りに、周囲から「復興へのシンボル」との声が上がった。しかし、自分一人が救世主になれない。「何かを変える力はありません。自分にできることを必死にやる」。野球しかない。そして繊細なほどに、地元の声に耳を傾けることだった。

 微妙な変化を感じた。「ファンの方々の“お帰りなさい”の声が“頑張ってください”に。勝敗にも厳しくなったと思います。普通のようで重く感じます」。7月にプロ22年目で初めて後援会が発足した。生涯を通じて仙台で活動を行う拠点の意味もある。「思案中ですが、活動はできることから始めます」。震災当初、米国からペットボトル一本すら届けられず、11年オフに気仙沼など変わり果てた故郷の姿を目の当たりにして「無力」と感じた。だが、ファンや支援者の笑顔と熱意が、自らの意識を少しずつ変えてくれた。

 ロッカーには、ある絵が置いてある。ドジャース時代の08年、右肘のじん帯部分断裂した時に出会った千葉県出身の心臓移植手術を受けた少年からもらったものだ。その少年と兄が野球を続けるか揺れた時「諦めるのは簡単だよ」と言った。その言葉を自らの心にも刻んで今後も戦う。

 「全員が一皮も二皮もむけて、常勝軍団の礎になった年だと言われるように。最後にすべてを懸けるつもりでいきます」

 日本一を仙台で。みんなで喜びたい。

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