土橋正幸氏死去 筋萎縮性側索硬化症で闘病、わずか1年で

[ 2013年8月27日 06:00 ]

84年6月、松岡弘投手(右)と

 かつて東映(現日本ハム)で投手として活躍し、引退後はヤクルトや日本ハムで監督を務め、プロ野球解説者としても親しまれた土橋正幸(どばし・まさゆき)氏が24日午後10時56分、筋萎縮性側索硬化症のため、都内の病院で死去した。77歳だった。土橋氏は軟式野球出身で55年に東映に入団。江戸っ子気質のテンポの速い投球でエースとして活躍し、58年から7年連続で2桁勝利を挙げ、61年には30勝をマーク。62年には日本シリーズMVPに輝いた。昨年9月に同症と診断され自宅療養を続けていたが、診断からわずか1年足らずで帰らぬ人となった。

 東映のエースとして、そして「プロ野球ニュース」の解説者としても愛された昭和の名投手が、この世を去った。土橋氏は昨年9月、難病といわれる「筋萎縮性側索硬化症」と診断された。それから自宅療養を続けてきたが、24日の夕方に容体が急変。最後は家族に見守られながら病室で安らかに息を引き取った。

 「今年に入ってどんどん病状が悪化して…。手足が動かなくなり、最後は飲み食いもできなくなりました。解説者の仕事が大好きだったので現場に戻れず残念でしょう」と妻・泰枝さん(72)は東京都港区の自宅で沈痛な表情を浮かべた。

 浅草出身で日本橋高卒業後は地元の軟式草野球チームに所属。その後ストリップ劇場「フランス座」のチームに誘われ、東京都の大会で優勝したことをきっかけに55年に東映にテスト入団した。「ちぎっては投げ…」のテンポの速い投球を武器に、3年目の58年5月31日の西鉄戦(駒沢)ではプロ野球タイ記録の9連続奪三振に加え、1試合16奪三振のプロ野球新記録を樹立。この年21勝を挙げ、入団時の年俸6万円が200万円に大幅アップ。12年間で通算162勝を挙げた。

 引退後は日拓、ヤクルト、日本ハムで監督として指揮を執った。プロ野球解説者としても江戸っ子らしいべらんめえ口調で親しまれ、沢村賞の選考委員長も務めた。昨年9月に難病を宣告され、右手が麻痺(まひ)して思うように動かせなくなった。土橋氏は「困った病気になった。しょうがねえよ」と冷静に受け止めていたという。病院嫌いのため自宅で妻の介護を受けながら療養を続けた。強気な投球スタイルの半面、私生活では繊細な一面を持ち合わせ、妻にいつも「ありがとう」「転ばないように気をつけろ」と声を掛けて気遣っていたという。

 最後の仕事は昨年12月だった。一人で歩くのも困難な状態だったが、家族に支えられながら番組収録のために車でお台場のフジテレビに向かった。レインボーブリッジを渡る際には「解説者としてこの道を通い続けたが、これが最後だから」と自らの最期を悟ったようにつぶやいた。その後も毎日、自宅でプロ野球中継を見ながら家族を相手に「田中(楽天)は面構えが良い」などと「解説」していたという。

 「最近も沢村賞の選考を気にして“今年は駄目かなぁ”と言ってました。孫も野球好きなので、亡くなる前日も2人で野球の話をしてました。最期は家族みんなに励まされて幸せだったと思う」と泰枝さんは話した。酒を愛し、親分肌で後輩に慕われた土橋氏。「江戸っ子投法」と名付けられた小気味いい投球とその独特な語り口は、野球ファンの脳裏にしっかりと刻まれている。

◇土橋正幸さん葬儀日程 
【通夜】28日(水)午後6時
【葬儀・告別式】29日(木)午前10時
【場所】梅窓院=東京都港区南青山2の26の38=(電)03(3404)8447
【喪主】妻泰枝(やすえ)さん

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