張本氏「寂しいよ。あんちゃん」昭和の侍が、また1人消えた…

[ 2013年8月27日 07:41 ]

1969年2月24日 張本勲氏(左)と笑顔を見せる土橋正幸さん

土橋正幸氏死去

 【張本勲氏、土橋さんを悼む】

 球界の昭和の侍が、また1人消えた――。寂しい。25日の夕方、奥さまと電話で話をした。涙が止まらなかった。無念だ。本当に残念でならない。

 球場では「土橋さん」。それ以外ではいつも「兄(あん)ちゃん」と呼んでいた。まさに兄貴分。ちゃきちゃきの江戸っ子で面倒見が良く、さっぱりとした性格で…。忘れもしない、昭和34年11月5日。東映入団1年目、19歳の私を初めて銀座に連れて行ってくれたのが土橋さんだった。体が大きくて、髪の毛は五分刈り。アロハシャツが似合い、それはもう格好が良かった。女性にも人気があった。銀座に、赤坂のクラブ・ラテンクォーター…。「こんな男になりたい」。いつもそう思っていた。私が、プライベートで一番多くの時間を一緒に過ごしたのが「あんちゃん」だった。

 日拓時代の73年後期。シーズン前に土橋さんに呼ばれた。監督に就任するという。浅草の実家の鮮魚店近くの喫茶店。「おまえは兼任でヘッドコーチをやれ。選手をまとめろ。2、3年でバトンタッチするから」。結局、球団は翌74年に日本ハムに身売り。土橋さんも退団した。投手としては歴史に残る速球派。あの稲尾(和久氏=故人)より速かったと思う。本当に「真っすぐ」な男。うまく立ち回るようなことができる人ではなかった。もしかしたら、監督のような職業には向かなかったかもしれない。

 毎年12月に行われる、東映フライヤーズのOB会。昨年は土橋さんは早退してしまい、すれ違いで会えなかった。直後に電話で話した。「もうダメなんや…。ゆっくり座れんしな」。自分で箸を持つことができず、奥さまが食事を口に運んでいたという。あんちゃん、あんちゃん…。本当に寂しいよ。(スポニチ本紙評論家)

 ◆土橋氏と張本氏 張本氏入団の59年から土橋氏引退の67年まで東映でともにプレー。69~72年は投手コーチと選手、日拓となった73年の後期は土橋氏が監督、張本氏が選手兼ヘッドコーチだった。

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