甲子園で3度名勝負 柴田勲氏「ボールの速さはNo・1だった」

[ 2013年6月14日 07:37 ]

1961年、甲子園優勝旗を手に笑顔を見せる尾崎さん

 プロ野球の東映、日拓(現日本ハム)でプレーし、その剛速球から「怪童」との異名をとった尾崎行雄氏が13日午前8時23分、肺がんのため都内の病院で急死した。68歳。甲子園で、法政二のエースとして尾崎氏の浪商(現大体大浪商)と3度の名勝負を繰り広げた柴田勲氏は「本当に残念です」と悼んだ。

 2人は尾崎1年生、柴田が2年生の60年夏の甲子園2回戦で初対決。柴田は浪商打線をわずか3安打に抑え完封勝利を挙げ、尾崎は8回に突如乱れ4失点を喫した。

 翌年春のセンバツ準々決勝では浪商が2回に先制し、序盤から尾崎を援護。4回まで無安打、毎回の7奪三振と好調だった尾崎だが5回に突如乱れ、1―3で敗退した。同年夏の甲子園では準決勝で対戦し、浪商は2点を追う9回、尾崎の2点適時打で同点。延長11回に勝ち越し、3度目で初勝利を挙げた。尾崎、柴田とも延長11回を投げ抜いた。

 「当時は東西の横綱と言われたが、1つ年下の尾崎君は本当に凄いボールを投げていた。一番記憶に残っているのは、61年夏の大会の準決勝。2―2、延長戦に入ってからが驚くほどに速かった。その後に江川、桑田…。多くの投手が出てきたけど、僕が知る限りでボールの速さはNo・1だったと思う」と振り返った柴田氏。

 「3年前、10年のお正月。夏の大会から50年がたつのを前に、東京ドームで両校のOB同士で試合をやった。試合後には尾崎君の浅草のお店にみんなで集まった。去年の11月に東京ドームで会ったのが最後。元気だった。『あんまり太るな。気を付けろよ』と話したんだけど…。本当に残念です。ご冥福をお祈りします」とかつてのライバルの死を惜しんだ。

続きを表示

「名将かく語りき〜歴史を彩った勝負師たち〜」特集記事

「稲村亜美」特集記事

2013年6月14日のニュース