川島広守元コミッショナー死去 高野連との雪解けに尽力

[ 2012年12月12日 06:00 ]

松井秀喜(左)からユニホームをプレゼントされた川島氏

 元プロ野球コミッショナーで、プロ・アマ球界の関係改善などに尽力した川島広守(かわしま・ひろもり)氏が9日午後4時、急性心不全のため都内の病院で死去したことが11日、分かった。90歳だった。川島氏は84年からセ・リーグ会長を務め、98年に第10代コミッショナーに就任。プロ・アマ界の「雪解け」を進め、日米球界の関係強化にも努めた。近日中に親族のみで密葬を行い、来年1月21日に東京都港区のホテルオークラで「お別れの会」が催される。

 強烈な会津弁と優しく、正義感の強い人柄だった川島氏。その最大の功績は、絶縁状態だった日本高野連との「雪解け」を進めたことだろう。03年1月23日、川島氏は日本高野連の脇村春夫会長(当時)と一対一でトップ会談。その後も自ら高野連を訪問するなど「野球の底辺強化のために、手を分かち合いたい」と関係改善に力を注いだ。

 同年12月26日には、現役プロ野球選手が高校野球部員や指導者を対象に行う初のシンポジウム「夢の向こうに」が大阪で実現。151校2459人が参加し、原則的に禁止されていたプロによる高校生への直接指導が行われた。プロ・アマの壁をなくすための第一歩ともいえる歴史的なイベントで、川島氏は当時「お互いが手に手をとって成し遂げたことに、深い感動を覚えている」と話した。「夢の…」は現在も続けられている。退任前の04年1月28日には、高校生には自由獲得枠を設けないなどの「新人選手選択会議に関する覚書」を高野連と結んだ。

 セ・リーグ会長14年、コミッショナー2期6年と合わせ、約20年にわたってリーダーシップを発揮。川島氏は日米球界の関係強化にも努めた。00年には日本で初の大リーグ開幕戦(メッツ―カブス)開催に尽力。同年のシドニー五輪には、松坂(当時西武)ら初めてプロ選手を派遣した。

 審判員の技術向上にも熱心で、セ・リーグ会長時代から審判員の米国派遣や、97年にはマイケル・ディミュロ審判員を米国から招くなどした。川島氏の下で長く事務局長を務めた長谷川一雄氏は「非常に細かいところまで気がつく人だった」と述懐。春季キャンプで12球団を回った時には、審判員に「飲み代の足しに」と内緒でポケットマネーを渡していたという。

 川島氏が退任の際、将来の夢としていたのが2リーグ制を守っての交流戦の実現。好きな人生訓は「われ以外、皆わが師」「一芸の士、ともに語るべし」だった。

 ◆川島 広守(かわしま・ひろもり)1922年(大11)2月27日、福島県会津若松市出身。中大法学部を経て、旧内務省に入省。警察庁警備局長、同警務局長などを歴任し、73年に田中角栄内閣の内閣官房副長官に就任。退官後は日本鉄道建設公団総裁などを務め、84~98年にセ・リーグ会長。98年3月にリーグ会長経験者として初めてとなる第10代コミッショナーに就任し、04年1月まで2期6年務めた。06年野球殿堂入り。

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