小久保の母・利子さん「いま、思えば、鬼親でした」

[ 2012年6月25日 07:07 ]

2000安打を祝い、小久保に手紙を書く母・利子さん

パ・リーグ ソフトバンク0-6日本ハム

(6月24日 ヤフーD)
 【母・利子さんから小久保へ祝福の手紙】

 裕紀へ 

 2000本安打 おめでとう 

 ここまでこられて ほんとによかったですね 

 小学校1年生(砂山少年野球クラブ)で野球を始めたばかりの5月。玄関で靴を履きながら「監督さんは僕ばかりしかる。行きたくない」と柱にしがみつき、泣きじゃくったことがあったね。

 あなたが6歳の時、和歌山に引っ越し、ひとり親で育てました。「欲しい」と言えば流行のテレビゲームソフトを買い与えていたこともあったけど、あの時は、ここで言うことを「そうか、そうか」と聞いてしまえば何事も中途半端になる。その一心で無理やり、柱から引き離し、車に押し込みました。いま、思えば、鬼親でした。そんな親の心配とは裏腹に2年生になる頃には「プロ野球選手になるんや」と夢中になっていたよ。

 5年生の担任・馬場先生は「野球を通じて、本物の仲間意識も芽生え、どんどん、自分を高めていますね」と通信簿に書いてくれました。入学したての頃は、着替えは脱いだら脱ぎっぱなしだったのが、小学校高学年には自らグラブを磨くようになりました。野球があなたを成長させたんだと感じました。

 大学進学のために見送りに行った新大阪駅。改札で別れたけど、実はあの後「電車の乗り方も分からないやろう」と入場券を買い、こっそり「尾行」しました。ごめんね。試合もあなたのヒットやホームランは生で何本見たんやろうか…。「ヒットが出んかったら」と考えると、しんどくなるのでニュースしか見ません。それでも苦痛にゆがむ顔を見ると、胸が苦しくなります。だから今回、球場に行くのはやめておきました。

 幸い薬剤師の資格があり、女手一つでもあなたたち兄弟を育て上げることができました。朝早くから夜遅くまで働き、誕生日やクリスマスもなかったよね。ただ、願ったのは「人に迷惑かけず、生きてほしい」ということでした。最後の最後で椎間板ヘルニアが出ましたが、どんなケガも乗り越えてきたから必ず乗り越えられると信じていました。今、体は痛いところだらけでしょう。2000安打を達成しようと気を張った反動で、体が、がたがたと来るかもしれません。だから、一番、掛けたい言葉は「おめでとう」ではないよ。

 裕紀、お疲れさん。

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2012年6月25日のニュース