誤審も野球の一部…川藤氏「いつか、審判で勝てる日もあるわい」

[ 2011年4月21日 10:26 ]

セ・リーグ 阪神4―5巨人

(4月20日 甲子園)
 阪神敗戦後の通路には判定への不満があふれていた。やり場のない怒りに守備走塁コーチ・久慈照嘉は「あれは大きいですよ」と吐き捨てた。

 7回裏、1点を勝ち越し、なお2死一、三塁。クレイグ・ブラゼルの二塁後方への飛球を巨人・脇谷亮太がこぼしたように見えた。一塁塁審・土山剛弘の判定は「アウト」。落球なら大きな追加点が入っていた。

 一塁コーチボックスにいた久慈は阪神では最も打球の近くにいたことになる。「二塁手が向こう向きだし、落球は見えなかった。審判も見えていないんじゃないかな。でもボールを拾い上げるのは見えたから」

 8回表先頭、小笠原道大の遊撃内野安打の一塁セーフ判定も「あれはアウト」。ともに監督・真弓明信が抗議したが判定は覆るはずもない。

 何人かがベンチ裏でVTRで確認したそうだ。VTRを見直して誤審と指摘するのはたやすい。しかし、これまで何度も書いてきたが、審判も人間だ。野球にはもともと、「人間的要素」が組み込まれている。たとえ誤審だったとしても、それは野球の一部なのである。

 ベースボールを野球と訳した中馬庚は1897年(明30)、国内初の一般向け専門書『野球』を出し「審判官ハ全場ノ君主、万事ノ総裁」と記した。この権威を高める責任は審判員自身ではなく、監督や選手の側にこそある。昭和初期、慶応大黄金時代を築いた名将、腰本寿が語っている。「審判官は絶対であるが、神ではないことを知れ。常に公平であり、反抗することによってなんらの利益をもたらさないことを知れ」

 阪神の思いは察するが「判定で負けた」とは思わない姿勢こそ大切ではないか。もし判定で心が揺れ動き、敗戦への坂道を転がったのならば、自省の必要もある。自身で制御できない事柄は心から排除することだ。それが潔く強い心を生む。

 喫煙室で出くわした阪神OB会長、川藤幸三が言っていた。「いつか、審判で勝てる日もあるわい」。悔しさは胸に刻み、判定のことは忘れることである。 =敬称略=

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2011年4月21日のニュース