170球完投横浜斬り!波佐見の遼馬 目標は全国制覇

[ 2011年3月25日 06:00 ]

<波佐見・横浜>スイングをアピールする波佐見・松田

第83回選抜高校野球  波佐見5―1横浜

(3月24日 甲子園)
 夢に見た聖地のマウンドで「りょうま」は一歩も引かなかった。強豪・横浜打線を相手に松田は攻め続けた。球数は170球。それでも140キロを超える剛球で春1勝をつかみ取った右腕は「勝ったので100点。最後まで思い切り投げて良いプレーができた。気持ちで投げた」とお立ち台で胸を張った。

 父の愛読書でもある司馬遼太郎の「龍馬がゆく」が「遼馬」の名の由来だ。得永監督が「ピンチや強い相手ほどアドレナリンが出る」と笑うエースの性格は、幕末のヒーロー坂本龍馬ばり。開始のサイレンが鳴り終わらない第1球で、いきなり自己最速タイの145キロ内角直球。1死後、2番伊達への2球目は自己最速の148キロをマークした。左打者6人が並ぶ横浜打線に対して、死球を恐れず大胆に内角を攻めた。制球には苦しみ8回を除いて毎回走者を背負い、2死満塁のピンチは3度あったがいずれも切り抜けた。

 長崎・島原一中では軟式野球部に所属。県内有力選手は06年センバツ準V、09年に同優勝した清峰を目指したが、松田は「自分の力で甲子園に行きたい」と01年夏を最後に甲子園から遠ざかっていた波佐見を選んだ。そして「松田が行くなら」と山口主将ら県内から“同志”も集まり、初のセンバツ切符をもぎ取った。

 自主性を重んじる得永監督は基本的にノーサイン。初戦が強豪・横浜に決まっても選手たちは「相手だって現チームは甲子園を経験してない。名前だけ」と臆するところはなかった。初戦を3日後に控えた21日も、雨で練習が中止になると即座にオフとなり温泉施設でリフレッシュ。各自で大阪の街を自由に歩いた。

 「勝ってうれしいけど、目標は全国制覇。初戦突破は通過点」とでっかい夢を口にした松田。自由を楽しみ、強い志を持ったナインを「りょうま」が引っ張る。

 ◆松田 遼馬(まつだ・りょうま)1994年(平6)2月8日、長崎県島原市生まれ。小2でソフトボールを始め、小4から投手。軟式の島原一中では県大会3位。波佐見1年夏からベンチ入りし、2年秋からエース。好きなプロ野球選手は前田健太(広島)。1メートル83、85キロ。右投げ右打ち。

 ▽坂本龍馬と長崎 土佐藩を脱藩し、幕府の軍艦奉行だった勝海舟のもとで航海術を習得した坂本は、1864年、勝海舟に同行して初めて長崎を訪問。翌年には薩摩藩の援助を受け、長崎・伊良林に交易仲介や運搬などの海運業を兼ねた政治結社「亀山社中」を結成。1867年に土佐藩から脱藩罪を解かれた龍馬が隊長に就任し「亀山社中」から「海援隊」に改称された。これは日本初の利益を目的とした貿易会社で、現在の株式会社の前身と言われるなど、長崎で歴史に名を刻む偉業を残した。

続きを表示

2011年3月25日のニュース