球史に残る18回死闘…箕島の名将、尾藤公さん死去

[ 2011年3月7日 06:00 ]

1979年8月21日、決勝で池田を破り春夏連覇を達成、ナインに胴上げされる箕島・尾藤公監督

 高校野球の和歌山県立箕島高監督として1979年(昭54)の甲子園大会で春夏連覇を果たした尾藤公(びとう・ただし)氏(日本高校野球連盟技術・振興委員長)が6日未明、膀胱(ぼうこう)移行上皮がんのため、和歌山市内の病院で死去した。68歳だった。春3度、夏1度の全国制覇。79年夏には星稜高(石川)と球史に残る延長18回の激闘を演じた。ベンチで浮かべる「尾藤スマイル」で、全国のファンに強い印象を与えた名将だった。

 尾藤氏が長い眠りについたのは6日午前3時37分。和歌山県立医大病院で臨終に立ち会った長男・強さん(42)は「安らかな最後だった」。5日には笑みも浮かべていた。担当医には「今年の桜は見られない」と告げられていたが、交代で付き添っていた元箕島野球部長の田井伸幸さん(61=元日本高野連副会長)や現監督の松下博紀さん(47)も「まさか」と漏らす突然の別れだった。

 箕島では捕手で4番。近大で腰を痛め中退。3年間の銀行勤務を経て66年、23歳で母校監督に就任した。68年に初の甲子園出場。70年春には島本講平投手(元近鉄)を擁して初の全国制覇を成し遂げた。当時27歳。強引な面から周囲と衝突。部員の信任投票で不信任が1票あり監督を辞めた。ボウリング場で働き「謙虚になれた」。

 74年秋に監督復帰。77年春には再び全国制覇した。大会中、エラーした選手を笑顔で迎えると「監督が笑っていると力が出せる」と聞いた。「選手を許すことも大事」と気づき、鏡の前で笑う練習を行うなど「尾藤スマイル」が生まれた。79年に公立校として唯一の春夏連覇を達成。特に夏の大会3回戦の星稜戦は延長18回の球史に残る激闘で、スポニチ本紙「甲子園の詩」で阿久悠氏(故人)は「最高試合」と名付けた。

 春夏14度の甲子園出場で通算35勝10敗。95年夏の和歌山大会で「選手と対話するノックで思う打球が打てなくなった」と監督を退いた。バントに代表される細かさと豪快な長打力、明るさと粘り強さが身上で「漁師の判断力、ミカン農家の忍耐力、商人の融合力」と地元の特性を生かした。「選手と恋愛している」と情愛を傾け「一期一会一球」を座右の銘とした。

 ≪智弁和歌山・高嶋監督らが弔問≫和歌山県有田市内の自宅に戻った尾藤氏の遺体は、1階の和室に安置された。6日未明に病院で遺体と対面した箕島野球部の松下監督は「いつものように、そのまま眠っているみたいだった。“まだ寝てるやん”と叫んだくらいです」と信じられない様子だった。2月15日に再入院。長い闘病生活だったが「最後まで痛いと言わなかった。辛抱強い人でした」とさとみ夫人(62)。自宅には智弁和歌山・高嶋監督らが弔問に訪れた。9日の葬儀・告別式は尾藤家と箕島野球部との合同葬として行われる。

 ≪阿久悠さん「最高試合」≫「甲子園の詩」は、07年8月1日に亡くなった作詞家、作家の阿久悠さんが79年からスポニチ紙上で連載。同年夏の箕島―星稜戦を「最高試合」とし、「君らの熱闘の翌日から~」で始まる詩は8月20日付紙面に掲載された。野球をこよなく愛した阿久悠さんは79年以降も毎年、夏の甲子園大会の全試合を見て詩を書き、都雪谷、新潟・新発田農などで歌碑となっている。

 ◆79年夏、箕島―星稜の延長18回 箕島・石井、星稜・堅田の投げ合いは1―1で延長戦へ。12回に星稜が1点勝ち越しも、その裏2死無走者から嶋田宗が左越え同点ソロ。16回に再び星稜が勝ち越して箕島の攻撃は簡単に2死。森川は初球を一塁ファウルゾーンへ打ち上げ試合終了と思われたが、一塁手の加藤が人工芝と土の境目に足を取られて転倒して捕球できず。森川は直後に左越え同点ソロを放った。最後は18回裏1死一、二塁から上野の適時打で決着。勝ち上がった箕島は史上3校目の春夏連覇を達成した。

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2011年3月7日のニュース