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日本野球変えた「ウォーリー」与那嶺要氏、死去

1974年10月4日、中日球場で完投勝ちした星野(右)を迎える与那嶺監督

 巨人、中日でプレーし、中日監督も務めた与那嶺要(よなみね・かなめ)氏が2月28日午後9時45分(日本時間1日午後4時45分)、前立腺がんのため米ハワイ州ホノルル市内で死去した。85歳。ハワイ・マウイ島出身。葬儀・告別式はホノルル市内で行うが日取りは未定。後日、東京都内でお別れ会を開く予定。米国仕込みの激しいプレーで日本の野球を変えた一方、その温和な性格は星野仙一監督(64)ら多くの野球人に愛された。

 故郷の風の中で逝ってしまった。数年前から前立腺がんと闘っていた与那嶺さんは、米国ロサンゼルスで治療を受けていたが、故人の希望で故郷であるハワイに戻って最期を迎えたという。

 沖縄からのハワイ移民2世として生まれた与那嶺さんは、高校時代はアメリカンフットボールの名選手。野球に転向した後、1951年6月に巨人にスカウトされ、戦後初の外国人選手として来日。翌52年から6年連続打率3割をマーク。首位打者を3度獲得し、57年にはMVPに輝いた。

 1番・千葉茂、2番・与那嶺は当時の名コンビ。巨人の第2期黄金時代を支えた一方「殺人スライディング」と呼ばれた激しいプレーやセーフティーバント、走塁の技術をプロ野球に伝えた。監督としては74年に中日の指揮を執り、巨人のV10を阻止。その後も約30年にわたって各球団でコーチを務めるなど日本球界に多大な貢献をした。

 愛称は「ウォーリー」。温厚な人柄は誰からも愛された。中日監督時代のこと。当時のエースだった星野(現楽天監督)が、ピンチで打席に巨人・王を迎えたときのこと。敬遠を指示しにマウンドに向かった与那嶺さんに星野は「勝負っ!勝負っ!」と連呼。ベンチに追い返したことが何度もあったという。

 後年「セン(星野監督)はね、いつもショーブッ!、ショーブッ!って言うのよ。でも本当にたくさん打たれてたよ」と笑う与那嶺さんに、星野監督は苦笑いするばかり。「与那嶺さんに怒られたことは一度もない。懐の深い、米国の合理性と義理人情を両方持っている」と評したこともある。「熱血指揮官」「猛将」と呼ばれる星野監督だが、監督としての原型は与那嶺さんにある。外国人選手の扱い方、チームの雰囲気づくりなど学ぶところは多かったという。

 94年に外国人選手として初の野球殿堂入り。激しいプレースタイルと、指導者としての手腕が評価された。日本の野球を変えた人だった。そして与那嶺さんの遺伝子は、日本球界に脈々と受け継がれている。

 ◆与那嶺 要(よなみね・かなめ)1925年(大14)6月24日、米ハワイ州マウイ島生まれ。父は沖縄、母は広島からのハワイ移民2世。ケガによりアメリカンフットボールを断念し、50年に野球転向。米マイナーリーグを経て、51年シーズン途中に巨人入り。首位打者3回、MVP1回を獲得するなど巨人の第2期黄金時代に貢献。60年オフに巨人を自由契約となり中日移籍。62年に現役を引退した。72年から77年まで中日監督を務め、74年には巨人のV10を阻止。巨人、ロッテ、南海、西武、日本ハムでコーチを務めた。1994年に野球殿堂入り。

[ 2011年3月2日 06:00 ]

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