ついに野球殿堂入り…落合監督「戸惑っている」

[ 2011年1月15日 06:00 ]

野球殿堂入り記者発表で加藤コミッショナー(右)から殿堂入りの通知書を受け取る中日・落合監督

 野球殿堂入りを決める野球体育博物館の表彰委員会は14日、競技者表彰としてプレーヤー部門で現役時代に史上最多の3度の3冠王を獲得した中日監督の落合博満氏(57)と、エキスパート部門で南海の主力選手として黄金時代を支えた故皆川睦雄氏(享年69)の殿堂入りを発表した。特別表彰は93年以来の該当者なしで、殿堂入りは計173人。表彰式は7月に予定されているオールスターゲーム第1戦(ナゴヤドーム)で行われる。

 3度目の正直。落合監督がついに野球殿堂入りの栄誉を手にした。現場の人間としては46年ぶりの受賞。さしものオレ流指揮官も、会見では満面の笑みで喜びのコメントを口にした。

 「実を言うと、ユニホームを着ながら入れてもらえるとは思っていなかった。いささか戸惑っている。殿堂は別物。感謝の思いでいっぱいです」

 史上最多となる3度の3冠王。たぐいまれな技術を誇った打撃の職人は、通算2000安打を達成しながら名球会入りを辞退した。入会資格を満たしながら拒否した初のケース。プロ野球でよく言われる「記録に残る選手よりも、記憶に残る選手に」という言葉に対しても「それは記録を残せない選手の言い訳」と話すなど、周囲と一線を画して現役時代は常に孤高の打者であり続けた。そんな影響もあったのか、残してきた偉大な足跡にもかかわらず、記者による投票では昨年まで2年連続でわずか1票届かずに涙をのんでいた。それでも会見では「3冠王も3度。1票差での落選3度も面白かったかな。歴史に名を残すのもいい」と笑いながら「これで野球界からいただける賞はみんないただきました」と満足感を漂わせた。

 79年にロッテ入団。その打撃理論で知られた当時の山内一弘監督からアッパースイングを矯正するよう言われたが「自分の思うようにさせてください」と拒否したのは語りぐさだ。オレ流の原点。入団2年目、控え捕手の土肥健二のスイングを参考に、手首を柔らかく使う打撃に開眼。同年のシーズン後半に1軍に定着すると「神主打法」と呼ばれた独特の打法で翌81年には首位打者、82年に3冠王に輝いた。

 「これからも(球界のために)もう一肌、二肌脱げるのであれば脱ぎたい。野村(克也)さんの代わりではないですが、(加藤さんを)耳を傾けてくれるコミッショナーだと思ってこれからも小言を言うと思います」。照れ屋で人付き合いも決して得意ではない。現役殿堂監督は、今後も野球界の発展のためにオレ流の生き方を貫いていく。

 ◆落合 博満(おちあい・ひろみつ)1953年(昭28)12月9日、秋田県生まれの57歳。秋田工から東洋大入学も中退。東芝府中を経て78年ドラフト3位でロッテ入団。87年に中日に移籍して、日本人初の1億円プレーヤーに。FAで94年に巨人、97年に日本ハムと渡り歩き98年現役引退。82、85、86年と3度の3冠王を含む、首位打者、本塁打王、打点王をそれぞれ5度獲得。04年に中日監督に就任し、3度のセ・リーグ制覇と07年は日本シリーズ優勝。家族は信子夫人(66)、コラムニストとして活躍する長男・福嗣さん(23)。

 ◆野球殿堂 日本の野球に大きく貢献した人物の功績を永久に称え、顕彰するため1959年に創設。競技者表彰と特別表彰がある。65年に現役監督として巨人・川上哲治監督、南海・鶴岡一人監督が選出されたが、その後規定が改定。現役引退して5年経過後から有資格者となる競技者表彰は、引退後に監督などを務めていれば対象外となった。しかし選手と指導者の評価が混同されやすく、かつ殿堂入りの時期が遅くなることから07年6月、プレーヤー部門(選手経験者限定)とエキスパート部門(監督、コーチ経験者らも含む)に分割され、08年表彰から現役監督、コーチも有資格者となった。
 プレーヤー部門はプロ野球取材経験15年以上の記者が最大7人連記で投票し、有効投票数の75%以上。エキスパート表彰と特別表彰はそれぞれの選出委員の投票数の75%以上で選出される。

続きを表示

この記事のフォト

2011年1月15日のニュース