元阪神名物OB会長 田宮謙次郎さん死去

[ 2010年5月6日 06:00 ]

大毎時代はミサイル打線の中核を担った田宮謙次郎さん(中)。左は山内一弘、右は榎本喜八の各氏

 阪神、大毎(現ロッテ)で活躍し、阪神のOB会長を務めた田宮謙次郎(たみや・けんじろう)氏が5日午前10時42分、脳内出血のため茨城県筑西市内の病院で死去した。82歳だった。1949年に投手として阪神に入団。外野手に転向後は58年に首位打者に輝き、巨人・長嶋の3冠王を阻止した。大毎では60年の優勝に貢献。63年に現役引退後は東映の監督を務めるなどし、02年に野球殿堂入りした。

 「タイガース愛」にあふれた人だった。田宮氏は昨年11月、白血病を発症。年末に退院したが、その後は順調に回復し、前夜も食事をしてから就寝した。「昨夜は元気でした。(この日朝に)しばらくしても起きてこないので見に行ったら、心臓も呼吸も止まっている状態でした」と長男の孝志さん。最近も「負けたら悔しそうにしていました」と阪神の勝敗を気に掛けていたという。
 阪神のOB会長を18年間務め、選手を叱咤(しった)激励した。特に井川(現ヤンキース3A)は茨城の後輩とあって後見人を自任。05年オフなどにメジャー移籍騒動が持ち上がった際には「行くなら(阪神に)恩返ししてから」などと苦言を呈した。また02年に星野監督が就任すると「タイガースを泥沼から救えるのは星野君しかいない」と話すなど、チームに愛情を注ぎ続けた。
 日大を中退して49年に投手として阪神に入団。50年3月16日の国鉄(現ヤクルト)戦では9回2死までパーフェクトを続けながら最後に安打を許し、完全試合第1号を逃した。肩痛で52年に野手に転向。58年に打率・320で首位打者を獲得し、巨人・長嶋の新人3冠王を阻止した。
 59年に10年選手制度で大毎に移籍。山内、榎本らとともに「ミサイル打線」の中心選手として活躍した。通算成績は1488試合で打率・297、106本塁打、597打点で、ベストナインにも5度選ばれた。引退後は東映・日拓(現日本ハム)の監督を務め、94年から2年間は台湾プロ野球でも指揮。茨城県下館市(現筑西市)で市議も務めた。

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2010年5月6日のニュース