西本氏「スポーツマンらしい、あっさりした性格」

[ 2009年2月6日 06:00 ]

山内一弘氏(右)と西本幸雄氏(1970年11月撮影)

 ▼西本幸雄氏(本紙評論家=山内氏が大毎オリオンズ時代の監督)3年前に私が大毎監督時代のマネジャーの葬儀に参列した時、山内君も夫婦で参列していた。その時もだいぶ体調が悪かったみたいで、心配していたんだが…。苦しんだのだろうなぁ…。毎日オリオンズで彼が2軍から上がってきた時が出会い。とても磊落(らいらく)で、スポーツマンらしい、あっさりした性格だった。私が大毎の監督をした1960年は田宮が2番、榎本が3番で彼はミサイル打線の不動の4番バッターだった。大試合に強くオールスターで、いつも賞品をかっさらっていく選手だった。内角球を打つのは天下一品。技術的な面では後々、学ぶべきところがたくさんあった。ご冥福をお祈りします。

 ▼ソフトバンク王会長 インサイドをファウルにせずに打ち返すことのできるシュート打ちの名人でしたね。野球界では無名の愛知県立高校から、ノンプロを経てプロ野球選手になった努力の人でした。温和な方で、名球会行事ではいつもご一緒させていただきましたが、最近はお会いしていなかっただけに、突然の訃報は残念でなりません。

 ▼張本勲氏(本紙評論家)寂しいですね。昭和30年代のパ・リーグを代表するバッター。阪神に移籍したときは、それは寂しかったですよ。シュート打ちの名人で、レフトを守っている私から見て内角の球をバットを立てたままさばくバッターは他にいませんでした。

 ▼田淵幸一氏(本紙評論家=阪神コーチ時代の教え子)私が初めてもらったプロ野球選手のサインは山内さんを中心とする毎日のミサイル打線のもの。当時毎日新聞社に勤めていた父がもらってくれた。阪神時代、山内さんがコーチとしてこられたのは75年。「内角を打つには軸で回転しながら右手で押すんや」。そうすると打球が左翼ポール際でフェードして中に入っていくという。打撃に関して「押す」という表現を聞くのは初めて。驚いたが、やってみると実際にそうなる。43本で初のホームラン王になったのはその年だった。
 ▼有藤通世氏(本紙評論家=ロッテ監督時代の教え子)私が69年東京オリオンズ(現ロッテ)に入団したときにもらった背番号は山内さんが毎日・大毎時代につけられていた8。背番号の重みを感じながら18年間プレーした。79年から3年間は監督と選手という関係でやらせてもらったが、移動や食事のときも話すのは野球のことばかり。技術を身に着けるための方法をたくさん持ち、とにかく野球が好きな大先輩だった。一世を風びした人がまた一人亡くなって寂しい。
 ▼中畑清氏(本紙評論家=巨人コーチ時代の教え子)インコースに詰まってばかりで壁にぶつかっていた86年オフ、打撃コーチとして巨人に来られたのが山内さん。「シュート打ちの名人」に教わって少しは内角がさばけるようになった。お陰で87年は4年ぶりに3割を超える・321をマーク。現役生活を長持ちさせてもらった。野球人生の中で“達人”とご一緒させていただいたのは誇り。恩人の訃報にがく然としている。
 ▼ロッテ瀬戸山隆三球団社長 07年の千葉マリンでの開幕戦(3月24日、対日本ハム)で始球式をお願いし、車椅子で来ていただいたのですが、歩いてマウンドまで行ってしっかりと投げられた姿はよく覚えています。重光(武雄)オーナーにお世話になったという話や、ロッテの歴史についてお話を聞かせていただきました。われわれも心して戦っていかねばと、あらためて思います。
 ▼ロッテ袴田英利バッテリーコーチ 自分が現役2~4年目に監督をされ、目にかけてもらい、打撃などよく指導を受けました。1軍にも呼んでいただき、試合にも出場させてもらい、自分を育ててくれた監督でした。心からお悔やみ申し上げます。
 ▼ロッテ高橋慶彦打撃コーチ 広島時代の83年に臨時コーチとして打撃指導を受けました。前年までシーズン最高7本塁打でしたが、それから4年連続20本台を打つことができたのも山内さんのお陰です。自分の人生の中で師匠と言える人。今、自分が打撃コーチとして教えることができるのも山内さんの教えがあったから。山内さんと出会えたから今の自分がいます。

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2009年2月6日のニュース