勝てなかったけど…王さん50年ありがとう

[ 2008年10月8日 06:00 ]

野村監督から渡された花束を手にファンに別れを告げる王監督

 今季限りで退任するソフトバンクの王貞治監督(68)が7日の楽天戦で最後の指揮を執った。監督通算2507試合目は延長12回の末に敗れ、12年ぶり2度目の最下位となったが、試合後、楽天・野村監督から花束を贈られると万雷の拍手がわき起こった。現役時代は通算868本塁打の世界記録を樹立。監督でも2度の日本一を経験し、06年には初代WBC指揮官として世界一に輝いた「世界の王」がユニホームを脱ぐ。ファンを魅了し続けたON時代も終わりを迎えた。

 どういう顔をしたらいいのか分からない。そんな表情だった。別れを惜しむ涙雨か。勢いを増す雨の中、王監督は帽子を取って敵地のスタンドに手を振った。野村監督、そして斉藤から花束を手渡されベンチ前では全選手と握手。割れんばかりの「王コール」の中、最後は深々と一礼してグラウンドを去った。涙も、笑顔もない。満面の笑みでお礼を言いたくても悔しさがそれを邪魔する。世界の王は、最後の最後まで勝負にこだわり続けた。
 「勝てなかったことが悔しいね。試合そのものには悔いが残るよ。今年を、後半戦を象徴するような試合だった。勝負師としては、最後を勝利で飾れず残念だよ」
 サヨナラ負けで96年以来の最下位が決定。直後の会見でも硬い表情を崩さなかった。栄光の背番号1を背負い、選手として2831試合。引退後は巨人での3年間の助監督と合わせ、2897試合目のユニホーム姿。「最後の最後まで、野球好きの僕にふさわしいね。(延長)12回までやれたんで」。そう話してようやく顔をほころばせた。
 試合前から、球場はお別れムード一色。指揮官は関係者へのあいさつ、記念写真の撮影に追われた。「でも、僕はあまり感傷に浸ることはない。人のことはすごく興奮したりするけど、自分のことはね」。だからあえて強調した。「最後とか全然そういう気持ちはなかった」。勝負は勝負。ラストゲームの感傷ムードを、サヨナラ負けの言い訳にはしない。50年間を球界で過ごしてきた男の意地だった。
 太くて長く、世界中のどの選手よりも充実した野球人生だった。59年2月。18歳の青年は早実の卒業試験を終えて、2泊3日の夜行列車で巨人のキャンプ地・宮崎入りした。「ダメならラーメン屋を継げばいい」。そんな気持ちで入った世界で868本塁打の金字塔を打ち立てた。巨人の監督時代には苦悩と解任劇に見舞われ、ダイエーに請われた後も当初は低迷。しかし、99年の日本一、00年のON対決と、どん底から再びはい上がる。06年WBCでついに世界の頂点。気がつけば50年の歳月が流れていた。
 95年。福岡の地が野球人生を根本から変えた。チームは万年Bクラス。96年にはファンから生卵をぶつけられたこともあった。加えて脱税事件にスパイ疑惑…。日本一になった99年以降も球団身売り、胃がん手術と、苦しいことの方が多かったかもしれない。しかし、温かい人々との触れ合いに安らぎを与えられた。行きつけの中華料理店は中国人一家が営む。「最初、だんなさんは(日本語が)たどたどしかったね。今は逆に子供が中国語を覚えなくて大変らしいよ」。自らの幼少の境遇に重ね、目を細める。今後も福岡に居を構えるのはそんな“家族”の存在もあるからだ。
 「ユニホームを脱いだら世界一周の船旅でもしよう」と約束した恭子夫人(享年57)はもういない。01年12月11日、自らも苦しめられた胃がんで死去。墓前を訪れるたびに亡き夫人に誓っていた。「自分が精いっぱい生きていくことで、心配を掛けたくない」。ユニホームを脱いでもその姿勢は変わらない。「ラスベガスでエルトン・ジョンのコンサートを聴きたいね」「足が思うように動かなくなったけど、ゴルフは続けたい」。入会を済ませているが、1度も通えていない書道教室へも行ってみたい。「背筋がぴんと伸びていいんだ。喜怒哀楽の激しい世界がなくなると衰えるのも早くなるからね」。ユニホームを脱いで歩む第二の人生。真っ白な半紙に、その道筋を書き記すつもりでいる。
 試合後、宿舎でのミーティングでは「本当に世話になった。厳しくもしたりしたけど、君たちが高いレベルの選手になってほしいから。ぜひプライドを高く持った選手を目指してほしい」と訴えた。厳しさ。その姿勢は最終戦でも示した。「生きている限り、野球界によりいい形で(力を貸して)ファンの皆さんに愛されるようにね。それにアメリカとの差もどんどん埋められるよう、自分の力が役に立ってくれれば」。日本プロ野球が誇る不世出の存在。ついに別れの時がやってきた。スタンドから、そして全国から大合唱が聞こえてくる。「王さん、本当にありがとう」――。

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2008年10月8日のニュース