石田「オヤジ勝ったぜ」手向けの1勝

[ 2008年7月17日 06:00 ]

<川和・霧が丘>ウィニングボールをじっと見つめる川和・石田

 第90回全国高校野球選手権記念大会(8月2日から17日間、甲子園)は16日、全国37地区で239試合が行われた。北神奈川大会では茨城・取手二のエースとして84年夏の甲子園優勝投手に輝き、15日に死去した石田文樹さん(享年41)の長男、川和の石田翔太投手(2年)が力投。勝利に貢献した。鹿児島大会では鹿児島実が4年ぶり16度目の出場を決め、試合後の本大会抽選で同校は大会2日目の第1試合に初戦が決まった。17日は33地区で210試合が行われる。

 【川和8―5霧が丘】悲しみはグラウンドの外に置いてきた。15日に横浜の打撃投手だった父・文樹さん(享年41)を亡くした2年生右腕、石田が志願のマウンドで力投。ポーカーフェースに17歳とは思えない精神力がにじみ出ていた。最速135キロの直球にスライダー、カーブを交えて4回0/3を3安打4失点。打線の援護もあり、チームは2回戦突破だ。
 「私情は持ち込みたくなかった。自分がエースだと思っているので(出場に)迷いはなかったです。オヤジなら“行け”と言うと思う」
 15日午前1時40分。父を横浜市内の病院でみとった。幼い頃のキャッチボールから始まり、野球のすべてを叩き込んでくれた。スライダー、カーブの握り、そして投球フォームは84年夏に茨城・取手二のエースとして甲子園優勝を飾った父の直伝だ。病床で意識がなくなった父には「ありがとう」と呼びかけた。
 午前4時に病院から帰宅。午前7時には朝練習に参加してこの試合の先発を直訴した。一晩中悩んだ新貝監督も「顔つきが普通だった」と先発を決めた。制球を乱す精神面が課題で背番号20を背負う石田だが、三條部長は今回の力投に「頭が下がります」と称賛した。
 17日が通夜、18日は告別式が営まれる。3回戦の渕野辺戦は20日だ。「絶対勝ちます」と石田は言った。球場から出て1人になった時、初めてポーカーフェースが崩れた。新貝監督から渡された“ウイニングボール”を握り締め、父を思って泣いた。

 ◆石田 翔太(いしだ・しょうた)1991年(平3)7月7日、横浜市生まれの17歳。小2から少年野球「山下ジャイアンツ」で野球を始めて以来投手一筋。緑が丘中では軟式野球部に所属。球種はスライダー、カーブ、チェンジアップ。家族は母、弟、妹。1メートル71、61キロ。

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2008年7月17日のニュース