平和の象徴・嶋清一投手が殿堂入り

[ 2008年1月12日 06:00 ]

海草中時代の嶋清一の投球フォーム

 不世出の左腕といわれた嶋清一(しませいいち)(1920~45年)が野球殿堂入りを果たした。和歌山・海草中(現向陽高)のエースとして、39年(昭14)、夏の甲子園大会で全5試合を完封、準決勝、決勝を連続ノーヒットノーランの偉業を達成。明大在学中に結婚、学徒出陣し、戦死した。その剛球伝説と、一瞬の青春を関係者の証言や貴重な資料写真で浮き彫りにした。今夏の甲子園大会期間中、終戦の日に表彰する声も出てきている。

 嶋清一を当時「学生野球の父」といわれた飛田穂洲(すいしゅう、殿堂入り)は「天魔鬼神に等しい快投」と評した。野球記者の草分け、太田四州(ししゅう、殿堂入り)は「峻烈(しゅんれつ)の剛球」「永(なが)く眼底に残る。後世の語り草」とたたえた。
 39年、第25回全国中等学校優勝野球大会(今の夏の選手権大会)に6度目(投手としては5度)の甲子園出場を果たした嶋は左腕からの快速球と「懸河のごときドロップ」で快投を続けた。全5試合完封、45イニング連続無失点は後の48年(昭23)の福嶋一雄(小倉)とともに今も大会記録に残る。決勝戦ノーヒットノーランは98年の松坂大輔(横浜)が59年ぶりに達成した。2試合連続(準決勝・決勝)のノーヒットノーランはほかにいない。

 5試合、打者154人で被安打わずか8本、奪三振57。センターを守っていた古角(こすみ)俊郎さん(86=和歌山県那智勝浦町)は「大会中、打球が来たのは2本だけ。ライト、レフトを合わせても12本」と記憶する。

 西本幸雄氏(87=本紙評論家)は嶋のすごさを肌で知る。和歌山中(現桐蔭)時代、甲子園を阻まれた。5年生最後の夏も和歌山大会決勝で敗れた。「とにかく球が見えなかった」。嶋との対戦では普段の4番から7番に下げられた。「嶋が生きていれば、戦後野球史は変わっていた」

 明大に進学した嶋を2年先輩にあたる藤本(中上)英雄は「思い出すのは嶋のことだけだ」と書いている。後に巨人に入り、プロ野球史上初の完全試合を達成する剛腕も嶋入学時に強烈な印象を抱いた。「えらい投手が入ってきた。僕の出る幕はないと、大げさではなく思ったものだ」
 そんな俊英の未来を戦争が奪ったのだ。嶋が海草中の主将として深紅の優勝旗を手にした甲子園球場のスコアボードには「心身鍛練」「総力興亜」のスローガンが掲げられていた。前年から開会式の選手宣誓は「武士道精神にのっとり」と全選手が唱和した。

 明大進学後の43年(昭18)、嶋は戦前最後となる主将となった。だが、戦時学徒体育訓練要項により東京六大学野球連盟は解散。学徒出陣で12月には海軍に召集された。海防艇に乗り、終戦まであと5カ月の45年(昭20)3月29日、ベトナム海岸線を北上中に米潜水艦の魚雷攻撃を受け帰らぬ人となった。24歳だった。出征前に結婚したよしこ夫人には遺骨も遺品もない白木の箱が届いた。

 今回、野球殿堂特別表彰委員会に駿台倶楽部(明大野球部OB会=入谷正典会長)が提出した申請文では「戦争は若者の夢を奪います。命も奪います。平和の尊さを後世に語り継ぐためにも」と審議を求めていた。
 戦争で甲子園大会は中断された。「白球飛び交うところに平和あり」は戦後、高校野球のうたい文句となった。戦後60年の節目となった05年夏の大会では開会式入場行進の先導役を嶋の後輩、向陽高主将が務めた。日本高校野球連盟の脇村春夫会長(75)は励ましの言葉で嶋の名を引用している。「高校野球は戦争を避けて通れない。嶋清一投手をはじめ、多くの球児が戦場で命を落とした。皆さんは精いっぱい甲子園を楽しんでほしい」
 殿堂入りを脇村会長は「大変喜ばしい」と語った。「今回の殿堂表彰を受けて高野連でも何か考えないといけない」と、運営委員会などで企画検討に入る。大会は今夏90回の記念大会。一部で終戦の日(8月15日)に甲子園で特別表彰を行う案も浮上する。日程が順調に進めば準決勝の日だ。

 海草中優勝メンバーでただ1人の生き残りとなった古角さんは「何とか甲子園で称えてやってほしい」と語った。「もう年だが、甲子園には、はってでも行く」

 「セイ坊」「トシさん」と呼び合った親友は明大でも海軍でも一緒。殿堂入りの内示に「号泣とはこのことです」と言葉にならなかった。「日本の野球殿堂にふさわしい。嶋は平和の象徴だ」とまた涙がこぼれた。

 ≪明大・別府総監督も感慨≫嶋清一は一昨年、昨年と2年連続1票足りずに落選していた。3度目の正直、悲願の殿堂入りだった。特別表彰委員会から元NHKアナウンサーの西田善夫さん(71)が「甲子園大会が春80回、夏90回記念を迎えることしまで待っていたんでしょう」と、名調子で紹介した。
 殿堂ホールで通知書を受け取ったのは明大野球部総監督の別府隆彦さん(83)だった。嶋の遺族では和歌山市に実妹・信子さん(85)がいるが、高齢で体調を崩し出られないため、推薦団体の駿台倶楽部が代表で受け取った。信子さん宅にも、明大合宿所にも嶋の投球写真が飾られている。
 別府さんは嶋が明大入学当時、明治中におり、よく一緒に練習したという。「おとなしく、心優しい先輩だった。よくノックを打ってくれた」。
 戦前の明大最後となる試合は43年5月23日、東京・和泉での立大との非公式試合。「嶋さん最後の試合でスコアは3―4の敗戦。だが記録にも記憶にもない。これで人々に戦争を思い浮かべてほしい」。殿堂の意義を語った。

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