パラ・アスリートの軌跡 ~障がい者スポーツ~

池愛里 運命に導かれた16歳の大型スイマー

[ 2015年6月13日 05:30 ]

練習の合間に笑顔を見せる池愛里
Photo By スポニチ

 運命に導かれるように、世界の頂点を目指し始めた少女がいる。水泳女子の16歳、池愛里(峰村PSS東京・東京成徳大高2年)。9歳でがんと闘い、左足首のまひという後遺症を負った人生は、障がい者手帳を申請した14歳から、輝きを放ち始めた。昨年のアジア・パラ大会(韓国・仁川)の50メートル自由形で金メダルを獲得。来月13日に開幕する世界選手権(英・グラスゴー)でも活躍が期待される1メートル78の大型スイマーの「輝き」の秘密に迫る。

 ニックネームは「えのき」だと言って笑った。「“進撃の巨人”なんて呼ばれることもあるんです」。時に周囲のネタにされる1メートル78の8頭身と長い手足こそ、池の最大の武器だ。04年アテネ五輪で日本女子初の自由形金メダリストとなった柴田亜衣さんは1メートル76。その柴田さんに、こう言われたことがある。「キックが駄目なら上半身で泳げばいいのよ」

 左足首のまひは「2種6級」。最も軽度の障がいではあるが、回すことはもちろん、上下左右への動きはほとんどできない。特製装具のおかげで走り回ることはできるが、足首の柔らかい動きで推進力を生む水泳においてはハンデだ。「障がいを受け入れる」と決断し、茨城・水戸市役所へ申請に行った中学2年。スイミングクラブに在籍しながら一般のレースに限界を感じていた14歳にとって、職員が教えてくれたパラリンピックの存在は、輝いていた。

 長身を理由に勧められたミニバスケットが楽しくて仕方なかったという、小学校3年の夏。週5回の練習で「筋肉痛が取れない」と思っていた左脚がある日、みるみる腫れた。「休みたくないから」と内緒で練習に参加しようとしたが歩くのも痛く、遅刻。1人でアップしていると、走ることもできなくなった。

 それが滑膜肉腫という悪性腫瘍、つまりがんであることが分かったのは、発症から1週間以上経てからだった。すぐに切断を宣告した医師に、池はうなずかなかった。「走れなくなる、というだけの思いだった。両親は切ってほしかったかもしれません。生きてほしかっただろうし」。気持ちをくんだ母が見つけてくれたのが、脚を切断せずに患部だけを取り除く療法だった。

 当時実績を残し始めていた新療法だが、腫瘍の種類が分からず、患部を縮小するための抗がん剤は効かない可能性もある。効果がなければ待っているのは切断か、死。だが薬は奇跡的に効果を示し、08年春には摘出手術を行った。神経に絡みついたがん細胞を削ったことで、後遺症として残ったのが左足首のまひだ。

 元来、スポーツ好きの少女がリハビリを経て、ようやく許可された運動が水泳。だが、池にとっては幼少期に体験会からも逃げ出した、最も嫌いなスポーツでもあった。それでも体を動かす喜びには、あらがえない。週1度が2度になり、毎日通うようになると、選手コースまで進んだ。

 パラアスリートとして初めて出場した12年の全国障がい者スポーツ大会県予選から、破竹の勢いで日本記録を塗り替えた。昨年のジャパンパラ大会では50メートル自由形のアジア記録も更新。日本のホープに躍り出た。迎えた10月のアジア・パラ大会(韓国・仁川)。50メートル自由形で優勝したものの記録は自己ベストに及ばず、100メートル自由形では中国選手に敗れた。初めての挫折に涙が止まらなかったという。

 だが、それは気持ちに火を付けることでしかない。手術後のリハビリを行っていた東京・築地の国立がん研究センター中央病院での出来事にさかのぼる。「院内学級できのうまでおしゃべりしていた友達が、翌日には亡くなっていたんです」。過酷な現実が教えてくれた「今」と「挑戦すること」の大切さ。だから決めている。生きていることへの感謝を、20年東京で金メダルという形にして伝えることを。

 【背景】
 9歳で左脚太腿付近に悪性腫瘍ができた池は、切断を勧める医師に抵抗し、脚を残す療法を選択した。抗がん剤治療後に病巣を摘出したが、その際に左足首のまひが残った。リハビリ後に小学校生活に戻っていったが、ありのままの自分を受け入れる決断をした中学2年時に「障がい者手帳」を申請。だが、父・愛明(あいめい)さんは反対した。その後、障がい者大会で大活躍。一昨年10月にマレーシアで開催されたアジアユースパラゲームスで金メダルを獲得し、帰国すると父は「これからも頑張れよ」と声を掛けてくれた。今は大会毎に応援に駆けつけてくれるという。「世界一を目指すのに、五輪もパラリンピックも同じ、ということをようやく分かってくれたんだと思う」。

 【支援】
 池を指導している峰村史世コーチは「彼女のいいところは集中力。人の声が聞こえなくなるぐらい集中する」と指摘する。自身は東洋大社会学部社会福祉学科で学び、卒業後は青年海外協力隊の一員としてマレーシアやニュージーランドなどで活動した。現地のスイミングスクールで指導するのが主な仕事だったが、教え子の中には障がいを持つ子供たちもたくさんいた。02年からはマレーシアで本格的に障がい者水泳の指導に取り組むようになり、04年のアテネ・パラ大会には同国代表として参加。帰国後、08年北京、12年ロンドン大会では日本代表のヘッドコーチとして腕をふるった。「障がい者スポーツに関しては日本はまだまだ遅れている。世界と戦うにはもっともっと頑張らないと」と連日、プールサイドで選手たちを叱咤(しった)激励している。

 【競技】
 競泳では泳ぎ方によって障がいの及ぼす影響に大きな差があるため、各選手に対し、泳法ごとにS(自由形、背泳ぎ、バタフライ)、SB(平泳ぎ)、SM(個人メドレー)の3クラスが与えられる。さらに各クラスは障がいの程度によって1~10段階(SBは9段階)に分けられ、S1は最も障がいの重いクラス、池のS10は最も障がいが軽いクラスとなる。1~10のクラス分けは障がいの箇所には関係なく、全身の機能をポイント化して判断する。

 【現状】
 池のS10クラスは最も障がいが軽い選手が集まるため、世界的に競技人口も多く、レベルも高い。昨年の仁川アジア・パラ大会で金メダルを獲得した得意の50メートル自由形の場合、池のベスト記録は29秒74だが、7月の世界選手権(英国・グラスゴー)のエントリー選手の中では16位相当にしかならない。ランク1位の選手は28秒12なので1秒62もの差がある。同様に100メートルでも自由形は17位、背泳ぎは19位、平泳ぎは16位、バタフライも24位相当で、世界との差はまだまだ大きい。今回の世界選手権で金メダルを獲れば来年のリオ・パラ大会代表に内定するが、池としてはまず世界選手権、リオ大会で経験を積み、次の東京大会でメダルを目指すのが現実的だ。

 【略歴】
 ▼生まれ 1998年(平10)9月12日、茨城県取手市。
 ▼経歴 水戸市立五軒小―第二中。峰村史世コーチの主宰する「峰村 ParaSwim Squad(PSS)」で指導を受けるため、上京し東京成徳大付高2年在学中。
 ▼サイズ 1メートル78、体重は「秘密」。
 ▼練習スケジュール 高校の水泳部と峰村PSSで週6日、8セッション。合宿時は1日1万~1万2000メートルを泳ぐ。
 ▼武器と弱点 峰村コーチによれば特長は「長い手足と負けず嫌い」。一方で左右のキックのバランスを取るために体幹の強化が課題。
 ▼好きなタレント SHINee
 ▼家族 会社経営の父・愛明さん、母・育美さん、兄・浩澄さん、弟・勇輝さん。父は東京に単身赴任していたが、池の上京と同時に家族全員が東京へ移住した。

 ◆チャレンジド・アスリート 障がいを持ちながら、自己の能力の限界に挑戦し、競技者として戦い続けるアスリート。

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