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松本光弘『痴虫松本のええじゃないか!!』

松本光弘

2017年3月15日

痴虫松本の二十歳のころ(後編)

痴虫松本の二十歳のころ(後編)

雑誌の企画に乗っかり、有名人に混ざりたい一心で書き始めた自分自身の二十歳のころ(笑)。前回は前ふりと、二十歳になるまでの経緯を書いた所で終了となりました。まだまだ書く事が沢山ありそうなので、今回もあまり遠回りせず本題へ入ろと思います。

前回の話では駅で会った中学の同級生の話で美大の存在を知り、そこを目指す事になったと書いていましたが、その前にそういった世界に憧れた原因があったのです。

それは、父が何気なく発したひと言でした。「この人は凄いんやぞ。この人が行っている大学は東大よりも入るのが難しいんや。」何のCMだったかは覚えていませんが、その瞬間、その言葉と共にテレビに映っていた日比野(克彦)さんが強烈に記憶に残ったのでした。そして、その大学こそが東京藝術大学だった訳です。

ちなみに、父は植木屋で、物を作る事も好きな人でした。そういった思い入れもあり、口から出た「東大よりも難しい」ではありましたが、それはデザイン科や油画科の競争率が凄かったせいであり、実際は東大の方が難しいに決まっています。しかも、受けてみると、勘違いした受験生も多々いるため、実際の競争率と言うのは数字では測れない物だという事もその後に解りました。

それから、その頃NHKの衛星放送で深夜やっていた「真夜中の王国」という番組の、美術特集にも大きな影響を受けました。後に弟子入りする事になる村上(隆)さんや、当時若い作家さんが集まって注目されていたスタジオ食堂など、ビデオに録って何度も何度も繰り返し見ていました。

先に出て来た日比野さんを含め、そう言った方々の出身大学が東京藝大であったり多摩美、武蔵美と呼ばれる有名美術大学だったのです。ただ、何故かその同級生に会うまでは、そういった憧れと、目指す大学というのがリンクする事はありませんでした。もしかすると、「真夜中の王国」は予備校時代に見たのかな。

なんにせよ、色々な間違いと偶然を経て、美大という目標とそれに向かう道筋がはっきりしたのが二十歳の一番のポイントです。

あの頃は受験勉強ではありましたが、本当に熱心に絵を描いて物作りの勉強をしていました。毎朝始発に近い電車で家を出て、代ゼミのシャッターが開くのを待ち(7時か8時位、通称「シャッター待ち」)授業までの時間も、各自の自主練として絵を描いていました。9時か10時位から授業が始まり、17時位に授業終了。2浪と3浪の時は、代ゼミの中でアルバイトをしていたので、一旦作業をやめて、夜の部(現役生の授業)の準備を手伝ったりして、それが終わるとまた自主トレ。

朝同様、今度は代ゼミが閉まる時間まで自主練をやってその日の授業が終了。1日12時間くらい予備校に居た気がします。3浪の夏の発表で受験内容の変更があり、3浪の後半はさらに家でも絵を描いていましたが、それまでは、それ以外の時間は友達と帰りに難波に行って洋書屋さんで絵を見たり、ブラブラしながら話をしていました。今思うと、一所懸命やっていましたが、それでも時間はあったんだなと思います。

それから、この頃の僕で話しておかないといけないのは、DT(童貞)だったと言う事。僕はDT期が結構長く、その間に色々こじらせた事が後の風俗体験や色々な自家発電の話に繋がって行くのであります。2浪の時に彼女が出来て、そこで上手く行けば良かったのですが、それも上手く成就せず。僕が男になるのは、東京に出て来てからの話です。

受験の話に戻りまして「この1年間目一杯頑張った!!」「代ゼミの実技試験でも1番になった!!」と、自分的には準備万端と息巻いて2度目の受験に挑みましたが、またしても1次試験でサクラ散る。さすがにこれには堪えました。せめて2次試験まで行きたかった。1年間頑張って、結果が去年と変わらずとは…。

その後、見事にやさぐれた3浪を迎えました。2度の受験と、ありがたい事に1つ学年が上の先輩が受かってくれた事で、受験と言うのがどういう事なのか解った気がしました。その人の絵は僕は好きではなかったのですが、とても上手だったのです。つまり、勝手な判断ではありますが、絵の良し悪し云々の前に、上手くなくてはいけないんだと気付いた訳です。

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