有森さん 心に残る小出氏の教え…故障しても「なんで?と思うな。せっかくと思え」

[ 2019年4月24日 17:13 ]

小出義雄さんとの思い出を語る有森裕子さん(撮影・会津 智海)
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 陸上の名伯楽として知られる佐倉アスリート倶楽部(AC)の小出義雄氏が24日、肺炎のため80歳で死去したことを受け、教え子で、女子マラソン92年バルセロナ五輪銀、96年アトランタ五輪銅メダルの有森裕子さん(52)が都内で報道陣に対応。時折涙を浮かべながら、約30分に渡って心境を語った。

 主なやり取りは以下の通り。

 ――訃報に接して。
 「正直、突然ではなかったので…。倒れたとか、病院に入ったとか耳に入っていたし、練習を見に行けないという情報もあった。ああいう体調でよく頑張ったな、と思う。(自分の)心境は、よく分からない」

 ――最近はどういうやりとりを?
 「最近の状況は分かっていなくて。私は仕事現場、大阪や名古屋でしか会えなかったので。高橋(尚子)選手とか、教え子はひんぱんにやりとりしていたと思うけど。私もボルダーの合宿で倒れたとかは聞いて、会うと『たばこやめたんだよ』とか『お酒、飲んでないんだよ』とか。会うと元気にしちゃうので」

 ――体調に関する話は?
 「今年に入って、入院したとは聞いたけど、病院にも行きづらいし、押しかけるのも。みなさんも知っている通り、気を遣う人なので。会うと元気にするんだけど、その後、体調崩したとか聞いていたので」

 ――会ったときの会話は?
 「元気、とにかく良くしゃべるんです。昔のタイムや、できごとや。私は覚えてないような試合のこと、練習のこと、よく覚えているなあと」

 ――訃報はどういう状況で?
 「今朝、ご家族から連絡いただいた。ご家族とは連絡を取り合っていなかったので、私の連絡先が入っていた監督の電話から、です」

 ――小出さんとの思い出は?
 「最初にお会いしたとき、泣かず飛ばすの私の話をにこにこして聞いてくださった。走れない私にイライラもしたと思う。けんかもしょっちゅうしました。手のかかるアスリート、困るアスリートだったと思う。最後に指導してもらったのは、アトランタのあと、1999年のボストンマラソンのメニューだったと思う」

 ――どんな指導を受けた?
 「私があまりに遅いので、タイムは追求しなかった。ただし『出すメニューは一日かけてもこなせ』と。性格に合わせたメニュー、伝え方をしてくれた。押しかけたような私を悩ませないように考えてくれたと思う」

 ――メニューは?
 「あの当時で言うと、半端なかったんじゃないかな。女性はこれ以上走らせてはいけない、とかあった時代に『常識を打ち破る』『常識を破ることが大事なんだ』とかうれしそうに。自分も部屋に帰ってブツブツ言ってたんですが、だんだん楽しくなった。未来を見ながら選手を考えてくれる監督が好きだった」

 ――教えで、心に残っていることは?
 「私、故障ばかりで。故障すると『有森、なんで?と思うな。せっかく、と思え』と。意味のないことなんて、なにもないんだと。どんなことが起きても『せっかく』と思えたから、どれだけ故障しても立ち向かえた。ちゃんと向き合ってくれたことに感謝しかありません」

 ――有森さんにとって小出さんとの出会いは?
 「どう考えても幸運だった。監督と会う前の実績がなかったから、マラソンは一から監督とやれた。実績がなかったことは、私にとって最高の武器だったかもしれない」

 ――今、小出さんに何を伝えたい?
 「本当に頑張ったと思う。ただ、2020年はブツブツ言いながらでも、一緒に五輪のマラソンを見たかったな、と。上から見ておいてください、と」

 ――どんな指導者だったと思う?
 「すごい改革をしたと思う。時代が変わって、いろんな練習メニューもできたけど、かけっこが大好きという本当に大事なことを大切に、選手と向き合ってくれた。たられば、だけど(小出監督と出会わなかったら)この流れ(五輪連続メダルからプロ)がなかったかもしれない。私が遅くても、待つことができる人だった。待って、信じて、育つのを待った。あの時代に監督に出会えたのは幸せだった」

 ――小出氏にとっても有森さんとの出会いは重要だったのでは?
 「監督がそう思ってくれていればうれしい。『おまえが最初だったから良かった』と思ってくれれば」

 ――プロになることについて小出氏は?
 「監督は『空港に降りておまえの綺麗なポスターが貼られてる、そういうの夢見てたんだよ。頑張れ』と言ってくれた。プロとして初めての99年のボストンで自己ベストをマークしたことも喜んでくれた」

 ――一番思い出に残っているレースは?
 「やっぱりアトランタ。あんなパタパタな走りの私に、大丈夫かなという私に…。最後の最後の練習は5000メートル2本だった。1本目は18分30秒以上かかった。それでも『もう1本行こう』と。次は18分ちょっと。もう終わりって言ってくれると思ったら『よく頑張ってるな、もう1本行こう』と。どんなにタイムが落ちても、オリンピックで頑張るために、もう1本と。タイムはすごく落ちたけど『できた』と言ってくれた顔は忘れられない」

 ――最後に会ったのは?
 「3月の名古屋(ウィメンズマラソン)。選手のインタビュールームに入ってきて、ずっと選手の話をしていた。『難しいなあ、最近の選手は』とか。偶然、みんなで写真を撮ったんだけど、とってもいい写真が撮れた」

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2019年4月24日のニュース