「父ロス」に思う それぞれの流儀 それぞれの決断

[ 2018年1月11日 10:00 ]

1999年1月、引退会見に臨んだマイケル・ジョーダン。左耳には、優勝回数の「6」をかたどったイヤリングが光る(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1993年8月。当時NBAブルズの大スターだったマイケル・ジョーダン氏(現ホーネッツ・オーナー)の父ジェームズさんが死亡した。友人の葬儀から帰る途中、ハイウエーの路肩に駐車して休憩をとっていたときに銃で撃たれるという悲劇。ジョーダンはその1カ月後、最初の引退を表明している。

 2016年8月。リオデジャネイロ五輪のレスリング女子53キロ級で五輪4連覇を逃した吉田沙保里は号泣していた。その2年前、自身のレスリング人生を築いたとも言える父・栄勝さんが61歳で急逝。銀メダルではその悲しみを埋めることができなかったのだろう。

 NFLライオンズでラインバッカー(LB)として活躍しているスティーブ・ロンガ(23歳)は昨年の9月29日、55歳だった父エティエンさんを交通事故で失った。その2日後、彼はバイキングス戦に出場。心中を察すると言葉が出てこない。

 2018年1月3日。星野仙一氏が死去する前日、私の父は旅立っていった。享年90。4度の危篤を乗り越えたが、5度目で力尽きた。

 「父ロス」。あのジョーダン氏でさえ人生に迷いを生じていた。当時、連日にわたって「ジェームズ氏殺害事件」の原稿を書き続けた私は、彼が選択した引退という“流儀”を認めなかった。「それくらいのことで引退するのかよ」。正直、そう感じていた。

 吉田がマット上で泣き崩れたあの日、私は吉田に勝って金メダルを獲得したヘレン・マルーリス(米国)の連載を書いた。ロンドン五輪で補欠に甘んじた挫折を経験しての世界の頂点。吉田とは違う涙にも注目してほしかった。

 ロンガの父の事故死は知っていたが、その週にメインで書いたのは王者ペイトリオッツに勝ったパンサーズ。悲劇を書き記す時間も余裕もなかった。

 今、思う。ジョーダン氏も吉田もロンガも、それぞれのやり方で何かを埋めて、何かを乗り越えようとしていたのだと…。自分自身がその立場になったとき、文字にしなかったもうひとつのアングルが見えてきた。

 父は私の帰郷を待って目を閉じた。次第に呼吸の間隔が空いていくのがわかった。寝たきりになったここ6年間の闘病生活は苦痛だったはずだが、最期は静かに自分の人生に決着をつけた。

 多くの方が両親や親族、あるいは友人たちとの別れと向き合っていることだろう。ただ、人間には必ずそこからリセットできる機能が備わっている。いつスイッチを押すのかはその人次第。時間の長さでは測れないタイミングがきっとある。

 机に置いたパソコンの画面には、スポーツ界の新たな動きを伝えるニュースが続々と入ってきている。ちょっと人より遅れてしまったが、これまでとは違った気分で迎えた新年。では、ひと段落がついたので、私もスイッチをオンにしようと思う。(専門委員)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市小倉北区出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。スーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会に7年連続で出場。

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