なぜパラリンピックの機運は高まらないのか ぜひ一度、会場で観戦を

[ 2017年6月1日 09:00 ]

練習で男子選手をマークする車いすラグビーの倉橋香衣
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 【藤山健二の独立独歩】先週末に千葉ポートアリーナで開催された車いすラグビーのジャパンパラ大会を取材した。車いすラグビーは他の競技と違ってタックルが認められ、会場内には車いす同士が激しくぶつかり合う金属音が響き渡る。転倒も珍しくない。まさに「男のスポーツ」そのものだが、実は車いすラグビーに男女の区別はない。

 男子選手に交じって紅一点の倉橋香衣(26)もコート上を所狭しと動き回り、日本の準優勝に貢献した。トランポリン選手だった文教大3年の時、練習中に着地に失敗して落下。頸髄(けいずい)損傷で、首から下の感覚を失った。最初に彼女を取材した時はどうやって励まそうかと考えたが、そんな心配は無用だった。ケガをした時のことを聞いてもあっけらかんとしたもので「周りの人が思うほど自分では悩んだり絶望したりはしなかった。やってしまったものは仕方がない。これからできることは何か、担架で運ばれる時からそればかり考えていた」と笑顔で話してくれた。

 彼女だけではない。実際、パラリンピックの選手を取材すると彼ら彼女らのポジティブな思考にいつも驚かされる。リオ大会で日本選手団主将を務めた車いすバスケットボールの藤本怜央(33)は小3の時に交通事故で右足の膝から下を失った。それでも「足が使えないなら手を使えばいい」と車いすバスケを始め、今ではドイツのブンデスリーガで活躍するまでになった。「一瞬の不幸から逆にたくさんの幸せをつかんだ」という言葉はストレートにこちらの胸に響いた。ゴールボールの安達阿記子(33)は黄斑変性症のために19歳で両目の視力をほとんど失った。そのため大好きだったピアノをやめてスポーツを始めた。だが、今でも「目が見えないことを言い訳にしてピアノをやめた自分が情けない」と振り返る。心の強さにはただ脱帽するしかなかった。

 そんな選手たちの願いは「満員の観客の中でプレーする」ことだ。だが、残念ながらパラリンピックの会場はどこも空席が目立つ。東京大会までもうあと3年しかないのに、パラリンピックの機運が一向に高まらないのは我々メディアにも責任がある。今やテレビも新聞もスポンサーや広告がなければ経営が成り立たないのが実情だ。だが、パラリンピックをもっと普及させるためには東京都、組織委員会はもちろん、政府、自治体、そして我々メディアがもっと損得勘定抜きで積極的に取り組む必要がある。最近は毎週どこかでパラリンピックの試合やイベントが開催されている。少しでも興味があれば、ぜひ一度、会場まで足を運んでいただきたい。障がいを感じさせずに全力でプレーする選手たちの姿から得るものは、きっとたくさんあるはずだ。 (編集委員)

 ◆藤山 健二(ふじやま・けんじ)1960年、埼玉県生まれ。早大卒。スポーツ記者歴34年。五輪取材は夏冬合わせて7度、世界陸上やゴルフのマスターズ、全英オープンなど、ほとんどの競技を網羅。ミステリー大好きで、趣味が高じて「富士山の身代金」(95年刊)など自分で執筆も。

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2017年6月1日のニュース