ソチのフリーは真央の特別な4分間「4年間の思い全て注ぎ込めた」

[ 2017年4月13日 05:53 ]

浅田真央引退会見

泣いてな〜いよ?笑顔で目頭を抑えながら会見場を後にする浅田真央
Photo By スポニチ

 21年に及ぶスケート人生で、シニア転向後の国際大会だけでも浅田は49試合に出場した。会見で最も印象に残っている演技を問われると、「う〜ん、難しい。1つというのは難しくって」と悩んだ上で「やっぱり、ソチのフリーかなって思います」と14年ソチ五輪で日本中を感動させた、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」を挙げた。

 「気持ちが今までの試合以上に落ち込んでいたり、つらかったりした思いがあったけど、それもあれだけ挽回する演技ができたこと。そして、それが五輪だったというのが一番良かった」

 10年バンクーバー五輪は同い年の金妍児(キムヨナ)に及ばず銀メダル。4年後のソチは、金メダルだけを目指していた舞台だった。ショートプログラム(SP)ではトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を含む全ジャンプを失敗し、まさかの16位発進。「SPが終わって“日本に帰れない”と思った。フリー当日の朝もまだ、気持ちが切り替わっていなかった」と明かした。

 どん底の状況を周囲が救ってくれた。覇気を欠いたフリー当日の公式練習後、佐藤信夫コーチは、かつての教え子のエピソードを浅田に語った。80年レークプラシッド五輪、佐藤コーチが指導していた松村充は体調不良に陥った。「ぶっ倒れたら助けてやる。ぶっ倒れるまでやれ!」と鼓舞した鬼コーチは34年後、「何かあったら絶対に行ってあげるから、心配いらないよ」と優しく声を掛けた。

 練習から選手村に戻ると、日本にいた姉・舞が電話をくれた。「今まで頑張ってきたんだから、今の気持ちのまま臨むの、もったいないよ!絶対できるから、やらないとダメ!」。普段は「頑張れ」とは決して言わない姉の強い言葉が、浅田のハートに火を付けた。試合用のメークを施し、ウオーミングアップで体を温め、ドアを開けて本番会場、アイスベルクのリンクへ。「これはもう、やるしかないと思いました」。本来の自分を取り戻していた。

 冒頭にトリプルアクセルを決め、残りのジャンプも全て着氷。11年12月に亡くなった最愛の母・匡子さんがいる天を見上げてフィニッシュすると、涙がこぼれた。フリーの142・71点は生涯ベスト。「ああいう形で最高の演技で終えることができて、バンクーバーからソチの4年間の思いを、全て注ぎ込めたと思います」。結果は6位だったが、金メダル以上の輝きを放つ“伝説の4分”だった。

続きを表示

2017年4月13日のニュース