“泣き虫先生”が語る教育論「教員の仕事は思い出づくりのサポート」

[ 2017年1月11日 16:20 ]

4月から教員の道に進む元ABCアナウンサーの清水次郎氏(右)を激励する山口良治氏
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 昨年10月に“ミスター・ラグビー”平尾誠二さんが53歳で急逝して、初めての全国高校ラグビー大会が7日、閉幕した。日本を代表する選手に成長した平尾さんの原点を作った泣き虫先生こと、山口良治さん(73=伏見工・京都工学院ラグビー部総監督)は、移り変わる時代の中で教え子に対する変わらぬ情熱を持ち続けている。元ABC(朝日放送)アナウンサーで、4月から兵庫県内の公立高校の社会科教師になる清水次郎さん(45)を相手に語った教育論とは―。

 この物語は、ある学園の荒廃に戦いを挑んだ熱血教師たちの記録である―。耳に残るフレーズでドラマが始まる「スクール☆ウォーズ」のナレーションが決して大げさではなかったことが、泣き虫先生の思い出話から伝わる。山口さんが伏見工に赴任した70年代、学校は荒れていた。トップリーガーを数々輩出し、特色ある取り組みをしてきたこの数十年前からは想像できない光景だ。人気ドラマの題材になった熱血漢は、ワルたちと正面から向き合った。

 山口「お昼ご飯を食べようと学校を出ると、喫茶店でたばこをくわえている生徒がいた。一緒に出かけた同僚は“見たらアカン”と言う。そんなわけにはいかないと、店に入った。“指をくわえていた”とうそぶくその子をバカヤローっとドツくと、後ろにあったビール瓶が割れて弁償をさせられた。アホなことをしたなと思う。でも、たばこを黙認する店も悪い。店主に“大人がこんなことをさせるのか”と説教をした。誰も怒らなかった。それは教師も同じだった」

 清水「見て見ぬふり、ですね」

 山口「休み時間になると、学校近くの喫茶店やお好み焼き屋さんに生徒がたむろしていた。その通りを他の先生が歩くと、店とは反対側を見ていた。生徒がたばこを吸っていても、見て見ぬふりをしていたんだね。私は授業がない時に外に出て見回りをしていた。店の人からは“貧乏神”と言われていた。あの先生が来ると、お客さんの生徒が来ないって」

 清水「今はそんな子はいないですね」

 山口「平尾たちが優勝(※1)して、学力がかなり上がったから。それまでは手がかかる子が多かった。清悟(しんご※2)には手を焼いた。1時間目に来ないから、出席日数が足りない。もうこれ以上休んだら進級ができないという時に、朝、家まで迎えに行った。父親が“寝てる”と言うものだからズカズカ上がって、寝ている清悟を“起きろー”と蹴飛ばして学校へ連れ出した。学校近くの喫茶店でモーニングをするのが定番。パン2枚のうちの1枚をあげて、清悟は3枚食べさせていたよ」

 清水さんはABCの元アナウンサー。花形職業から異例の転身をし、4月から兵庫県内の高校の社会科教師になる。

 清水「1人の子どもに深くかかわろうとする思いはどこから来ていますか」

 山口「私は小学校1年の時に母を亡くして。それから、いろいろな先生に大事にしてもらった。家に呼んでくれてご飯を食べさせてくれたり。中学の先生は、勉強するからおいでと、正月から家に呼んでくれた。子どもが2人いたのに、その端っこに入れてもらって川の字で寝させてくれた。そんな経験もあって、迷わず教師になりたいと思った」

 山口さんはラグビー元日本代表13キャップ。フランカー兼キッカーの名選手だった。

 清水「ラグビーの活躍を買われ、大学卒業の時は企業からの誘いを受けたと聞きました。教員になって良かったと思いますか」

 山口「ためらいがなかったね。教員になりたいという思いが強かった。伏見工に赴任する前、京都市の教育委員会に在籍した時に素行が悪い中学生を叩いてしかったことがある。親に謝罪することになった。でも、僕は頭を下げなかった。母親はあれこれ言うけれど、どんな悪いことをしたのか知らない。自分が生んで育てた子なら、ちゃんとしろと言いたかった。僕には母親がいなかったから」

 清水「今、私が同じことをしたらダメですね」

 山口「気をつけや(笑)。ちょっとしたことで言われる時代になった。ますます教師は何もしなくていい職業になってしまう」

 清水「親がしつけをしていないのに、学校でしつけをするというのは実際問題難しい。しかし、家庭で教えるようなことまで学校に求めてくる親もいるというのを聞いた事があります」

 山口「モンスターペアレントというか、トゥーマッチケアというか。親がしっかりしないといけないのが大前提だが、教師の役割も大きい。人生を自分で振り返ったとき、多感な10代の頃の思い出というのはずっと残る。そうでしょ?英語の単語は記憶から消えても、思い出は忘れられない。教員の仕事はそんな思い出づくりをサポートすることだと思う」

 清水「春から教師になります。理想論ですが、山口先生のようにありたいと思います」

 山口「私は家庭訪問をすることが多かった。個人的に、ね。どんな親か、どんな家庭かを知りたくて素行が悪い子の家を訪ねていた。“お腹すいたし帰りたいな”と思いながら」

 清水「生徒の家に行く先生は、当時もいなかったのではないでしょうか」

 山口「親の顔を見ればヒントをつかめる。この子にどんな思いを持っているのか、どんな育て方をしたのかを知れば、指導の仕方も見えてくると思った。お母さんが気を使ってご飯を出してくれたこともあった。ある時、ホルモンの煮こごりが出てきたことがあった。僕は内臓系が苦手だったけど、断るのも悪いから、無理矢理口に入れて。どぶろくも一緒に出されたなあ。お酒やら何やらで気分が悪くなって、家に戻ってから…」(一同笑い)

 山口さんのラガーマンらしい“体当たり教育”から見えてくることはたくさんある。見て見ぬふりをしない。生徒と積極的にかかわって道を外れさせないようにする。根底にあったのは「教育とは思い出作りをサポートすること」だった。

 泣き虫先生との出会いが人生を変えた。中学時代は「弥栄(やさか)の清悟」としてその名をとどろかせた山本清悟さん(56)は現在、奈良朱雀高校の体育教師でラグビー部監督を務める。伏見工卒業後、師と同じ日体大に進み、教職の道に入った。

 「私は山口先生と出会って、立ち直れた人間。先生には、自分のような子どもを救ってあげなさいと教えられた」

 おにぎりがラグビーに没頭するきっかけだった。高校1年の6月、愛知遠征の時だ。「私は父子家庭。家の事情を知っていた先生が食事を用意しくれた。その気遣いをきっかけにして競技に打ち込んだ。おにぎりがなかったら今の人生はない」

 教える側に回ってからは、師の教えと自分の経験を合わせた考えを子どもに伝えている。「人に期待される人間になりなさい。されたなら、期待にこたえられる人間になりなさい―」。泣き虫先生の情熱は脈々と受け継がれていく。

※1 1980年の全国高校ラグビー大会で伏見工が初優勝。昨年10月20日に亡くなった平尾誠二さんが司令塔として活躍した。

 ※2 山本清悟さんは、伏見工入学時は京都一のワルと恐れられたが、高校2年時に同校初の高校日本代表に選ばれた。日体大を経て教員に。奈良朱雀高でラグビー部監督をしている。

◆山口 良治(やまぐち・よしはる)1943年(昭18)2月15日、福井県生まれ。中学まで野球少年。若狭農林高(現若狭東)でラグビーを始める。日体大。日本代表13キャップ。1971年の3―6で敗れたイングランド戦に出場。名キッカー兼フランカーとしてならした。岐阜県での教員、京都市教育委員会勤務を経て74年に伏見工に体育教師として赴任。ラグビー界で無名だった同校を全国の強豪に押し上げ、監督として2回、総監督として2回の日本一に導いた。

◆清水 次郎(しみず・じろう)1971年(昭46)10月12日、東京都出身の45歳。早実高では野球部。早大を経て94年4月にABC(朝日放送)に入社。高校野球、阪神戦の実況を務めた看板アナウンサー。阪神の情報番組「虎バン」の司会も11年務めた。「生徒それぞれに輝ける場所がある。それに気付いてもらい、前向きな人生を送れるようにお手伝いをしたい」という思いから通信教育で教員免許を取得。16年6月に同社を退社し、同9月に兵庫県公立高校の教員採用試験に合格した。4月から高校の社会科教師になる。家族は妻と男の子2人。

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