突飛と理解しつつ…甲子園にならい、五輪「聖地永年開催」はどうか

[ 2016年10月18日 09:00 ]

高校野球の聖地、甲子園球場
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 リオデジャネイロの聖火が消えたにも関わらず、いよいよ「次は東京」の機運が高まらない。話題になるのは会場計画の見直しばかり。確かに国際オリンピック委員会(IOC)は「アジェンダ2020」で費用削減をうたい、柔軟な姿勢を見せている。「経済効果」という目に見えづらいものへの期待感より、目の前で税金が使われていくことに対する拒否反応が強いことは理解できないわけではない。一方で、東京都の首長のアクションが、まるで勧善懲悪の時代劇のように報じられることに閉口するのは、筆者だけではないのでは。

 さて、五輪とパラリンピックの開催都市が莫大な費用を必要とするのは、1980年代から拡大を続ける巨大イベントの「性質」となっていたことは間違いない。立候補都市の減少を危惧したIOCがアジェンダに費用削減を盛り込んだのも、1つの流れ。その一方で、追加種目という「権利」を都市に与えたことで、費用削減は中途半端になる可能性も否定はできないだろう。

 実は「堅実な開催」こそが最大の魅力の1つだった東京=日本の現在の混乱ぶりを考えると、もはや五輪とパラリンピックを世界各地で開催し続けることは難しくなったのではないか、とも感じてしまう。このままでは、東京に集結する世界中のアスリートに対する国内の視線がどうなるかすら、不透明だ。歓迎されない祭典ほど、不幸なものはない。

 そこで突飛とは理解しつつ提案したいのが、五輪の「聖地永年開催」プランだ。夏季ならアテネ、冬季ならオスロあたりが候補だろうか。恒久的な施設を世界中から集めた予算で作り、聖地化する。アスリートはその聖地を目指す。「地の利」の不公平感も、永年なら対応力の問題。バリアフリーなどの考え方を伝播する役割があるパラリンピックは、できれば世界各地で開催してほしい。

 そして、そのプランのイニシアチブは日本にとって欲しい。日本には甲子園という高校野球の聖地がある。あこがれの場所で最高のプレーをする、という考え方を世界に発信するのはどうだろう。確かに世界中の文化に触れあえないのは寂しいが、開催都市の準備状況や治安ばかりに話題が集中することも避けられるではないか!(首藤 昌史)

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