4年に一度の“スポーツの理不尽” 五輪選手たちの「覚悟」やいかに

[ 2016年8月2日 10:40 ]

コパカバーナ海岸の五輪マークで写真を撮る人たち(AP)

 善の道に立ち入りたらん人は 御教(みおしえ)にこもる不可思議の甘味を覚ゆべし(「奉教人の死」芥川龍之介)

 小説の冒頭に、キリシタン文書から引用したとされる一文が出てくる。善の道に入ろうとする人は、神の教えにこもる不可思議の甘味を知りなさい――というほどの意味のようだ。

 いよいよリオ五輪が始まる。何度、五輪を見ても感じるのが、スポーツの理不尽だ。選ばれた才能を持つ選手が、相当な練習と周到な準備をして試合に臨む。しかし、予期しない事故や運の振れで勝ち、敗れる。それが4年に一度の大舞台で、多くの人の目の前で、繰り広げられる。

 実力とは何なのか。結果にどんな意味があるのか。特に、敗れた選手の涙は、答えのない人生の理不尽を考えさせる。それを必死に受け入れ、のみ込もうとする選手の姿が、いつの五輪でも目に焼き付く。

 さて、善の道を、スポーツの道に置き換えてみる。五輪の道でもいい。そこには、不可思議の甘味がある。選手を引きつける大舞台の甘味は、不可思議であると知って味わわなければならない。才能も練習も準備も、実力すらも、結果を裏づけてはくれない理不尽を、覚悟して臨まなければならないのだ。

 小説では、信心深い美少年が、自分を身ごもらせたと言う町の娘の告発で、教会と町を追われる。好意に応じてくれない少年への恨みが娘に嘘をつかせた。1年半後、町の大火で火中に残った娘の子を、その少年が決死の行動で救う。虫の息の少年を前に、娘はざんげをする。自らを犠牲にして娘の立ち直りを導いた少年は死に、実は少女だったことが分かる。教会は、殉教者としての永遠の命を与える。

 「御教」を不可思議と思うか、甘味と感じるか。一見、相いれない矛盾に思える「不可思議の甘味」をどう考えるかが、テーマの一つだが、五輪の道では、不可思議と甘味は同居する。選手は、矛盾を丸ごとのみ込んで、決戦の舞台に立つ。

 勝者の歓喜。敗者の涙。何より、結果をかみしめる双方の表情が、美しい。そこには、「御教」ならぬ「覚悟」がある。努力だけではなく、努力の末にたどりつく覚悟に、五輪の美しさがあるのではないかと思う。

 だから、恐れずに挑んでほしい。(鈴木 誠治)

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2016年8月2日のニュース