担当記者が語るウルフの素顔…若手鍛え上げた「お山の大将」

[ 2016年8月1日 13:30 ]

1989年3月25日、春場所で27度目の優勝決めた千代の富士が左肩を脱臼する

 大相撲で史上3位の優勝31回を誇り、昭和から平成にかけて一時代を築いた元横綱千代の富士の九重親方(本名秋元貢=あきもと・みつぐ)が31日午後5時11分、膵臓(すいぞう)がんのため東京都内で死去した。61歳。小兵ながら豪快な相撲でファンを魅了した国民的スター「ウルフ」を、スポニチの元担当記者がしのんだ。

 ▼龍川 裕(相撲記者クラブ会友)ちょうど、大関・貴ノ花が人気を博していた頃のことです。80年12月に九重部屋を訪問し、北の湖の日本刀を使って武士道をイメージした千代の富士の写真を撮らせてもらったのですが、そのときの千代の富士は自信に満ちあふれていました。81年1月の初場所後に大関に昇進しましたが、すでにその初場所中の土俵入りでは大関・貴ノ花よりも千代の富士に対する歓声の方が数倍も大きかったのを覚えています。貴ノ花から千代の富士へと、時代が完全に移り変わったと実感しました。

 横綱が出稽古することはなかった時代、押し相撲が苦手だった千代の富士は当時大関・琴風がいた佐渡ケ嶽部屋へ毎日通い、三番稽古で押し相撲を克服しました。そんな実体験からかゴルフを一緒にラウンドしたときにはOBだろうが、スコアが悪くなろうが「最後まで諦めるな」といつも言われました。北海道の実家を訪れたときにはご両親にお世話になりました。帰りには実家の塩辛をもらいました。本当においしい塩辛でその味とともに千代の富士には感謝しかありません。

 ▼富樫 嘉美(元相撲担当)駆け出しの1986年、九重部屋密着ルポの機会があった。都内の部屋に足を運ぶと、2階大広間の一角に1メートル四方のジグソーパズルがあった。確か大きな帆船だったが、横綱・千代の富士の趣味と聞いてびっくりした。小柄でも豪放磊落(らいらく)な印象しかなかったからだ。本人に尋ねると「おれは結構細かいことをしっかりやれるんだよ」と照れ笑いを浮かべていたのを思い出す。

 部屋の人間は千代の富士への尊称が「横綱」ではなく「大将」だった。これも珍しかった。そしてキャラ自体もまさにお山の大将。上り調子の部屋の違う若手を巡業の稽古でとことん鍛え、出はなをくじいた。こうして怖さを見せつけ、本場所の対戦の時、精神的優位に立つ。これも千代の富士流だった。

 引退後、弟子育成には手腕を見せたが、一門内での調整がうまくできず自らが望んだ理事長の椅子へは届かずじまいだった。親方になってもお山の大将気質が消えなかったのは確か。でも思う。もともとの能力の高さに気性の激しさがあったからこその千代の富士だったと。

 ▼仁木 弘一(元相撲担当、現大阪報道部デスク)九重親方には新人時代に仕事の厳しさを教えてもらいました。

 まだ現役時代のこと。当時横綱の千代の富士が90年8月の夏巡業でケガをして東京に帰京しました。その後、秋場所出場について自宅に取材に行けとデスクに言われて行きました。当時こちらはまだ新人。一方、千代の富士と言えば国民栄誉賞を受賞して、優勝回数も最多記録を更新していました。支度部屋でもウルフと言われ角界の第一人者と言われるほどの存在感と威圧感は凄いものがありました。

 ちゅうちょしながら自宅のインターホンを押したものです。最初はおかみさんが出て「横綱の具合は?」と聞くと「ちょっと待ってください」と言って横綱がインターホン越しに答えてくれました。びびりながらも、しっかりと応対してくれたことに感動したことを覚えています。その後も怖い存在でしたが、聞いたことには嫌みを言われながらも、ちゃんと答えてもらいました。横綱・貴乃花も同じような独特の存在感を持っていましたが、やっぱり千代の富士のすごみは今も忘れられません。

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2016年8月1日のニュース