生後10日で右足失った藤井美穂 自転車挑戦「きのうの自分に勝ちたい」

[ 2015年3月5日 05:30 ]

自転車の前でVサインの藤井美穂

 もう一つの五輪という意味が込められたパラリンピック。あと2000日後、東京は世界で初めて2度目のパラリンピック開催都市となる。障がいを乗り越え世界と戦う道を選んだ選手たち=チャレンジド・アスリートに焦点を当てるカウントダウン企画がスタート。1回目は自転車に挑む藤井美穂(20=楽天ソシオビジネス)を紹介する。生後10日で右足を失った少女が、2つの車輪に懸ける思いとは。

 1分間に2度は笑顔がこぼれる。そして平然と言い切るのだ。特に困ったなんてこと、記憶にないと。

 「フジイはどんなスポーツだってできる。右足がないことを意識するのは、全身を鏡で映した時か、テレビでフジイの姿を見る時くらいなんです」

 義足を着用するのは通勤時と勤務中だけ。普段は左足で跳びはねて生活する。今年1月にはその左足を捻挫したが「2歩も跳べば、自分の部屋の端から端までいける」と悪びれない。小学生時代は「鬼ごっこで走りにくい」と外した義足。負けず嫌いというだけではない。不自由という感覚がないのだ。

 「私、右足がないだけですから」

 言葉に込められているのは、生きている喜びかもしれない。小学校4年のとき、母・由美子さんに叱られたことがあるという。「やってできないことは仕方ないけど、やらずにできないと諦めるのは違う」と。その教えが、生き方そのものになった。

 自転車競技との出合いは、昨年5月初旬のことだ。義肢装具士の斉藤拓さんに誘われ、体験会に参加。6月の国内大会を経て、7月にはスペイン・セゴビアで行われたW杯に参戦した。両足なら踏むだけで反対側のペダルは上がる。藤井の場合は左足でペダルを踏み、その左足でペダルを引き上げ、また踏む。気温40度のレースは、想像を絶する過酷さだった。

 それでも、64キロのロードレースを周回遅れになりながら完走した。16キロ手前の下り坂でスピードを出し過ぎて転倒。倒れるのは、足で支えることができない右側だ。ハンドルによる事故を防ぐためハンドルから手を離さないのが鉄則で、受け身はできない。ゴールした時には右の頬、顎、肩、手のひらから出血していた。日本パラサイクリング連盟の権丈(けんじょう)泰巳理事長はその姿に驚いたが、飛び出した言葉にさらに驚いたという。

 「最近のファンデーション、いいやつあるんで大丈夫です」

 パラリンピックを意識したのは小学校5年という。車いすテニスをする金髪の女性をテレビで見て、五輪と同じような最高峰の舞台があると知った。それ以来、パラリンピック出場は夢となった。中学ではテニスを試したが、前後左右への動きについていけず、それならと卓球部に入部。大会で1勝したこともある。

 足を切断した人を中心としたスポーツクラブ「ヘルスエンジェルス」で陸上を始めたのは中学3年の夏休み。片足大腿切断のクラスで走り高跳び1メートル39の日本記録を作った。だが、公認世界記録1メートル38が示す通り世界にもライバルは不在で、パラリンピック非実施の種目だった。

 身体のバネという資質を持っていても、自転車には大きなハンデがある。片足大腿切断「C2」クラスの中で、両足でこいだ感覚が残っている後天性の選手は、バランスが取りやすい。藤井にはその経験がない。昨年10月、韓国・仁川で行われたアジアパラ競技大会では出場3種目のうち2種目は最下位。だが、それもモチベーションでしかない、と笑う。

 「練習しただけスピードやタイムが上がって、前の選手との差が詰まる。進歩しているのが見えるのがうれしい」

 何かと戦うことのできる喜びは「いつも、きのうの自分に勝っていたい」をモットーとする20歳にとって、替え難いものだった。こぐことをやめれば倒れる自転車という競技こそ、挑戦に値する。

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