五輪聖火台、被災地へ 国立競技場に別れ 64年大会から半世紀

[ 2014年10月10日 11:37 ]

クレーンでつり上げられる国立競技場の聖火台=10日午前

 1964年東京五輪の開会式から半世紀となる10日、大会の象徴である国立競技場(東京都新宿区)の聖火台が取り外された。敗戦から20年足らずで平和の火をともした復興のシンボルは、多くの人々の思いとともに東日本大震災の被災地、宮城県石巻市に運ばれ、展示される。2020年の東京五輪・パラリンピックでは、生まれ変わった新国立競技場の敷地内に記念展示される予定だ。

 50年前。秋晴れの空の下、聖火台へと続く階段を駆け上がる19歳の若者に日本中の視線が集まった。今年9月に69歳で亡くなった東京五輪の最終聖火ランナー坂井義則さんにとって、競技場は生涯、聖地だった。

 45年8月6日、原爆投下のその日に広島県で生まれた。平和と復興をアピールするのにうってつけと、大役に選ばれた。出生地は爆心地から数十キロ離れており、「アトミックボーイ(原爆の子)」と報じる外国メディアに戸惑いながらも務めを果たした。

 緑の芝、カラフルな各国選手の衣装、遠くに見える山々。聖火台から独り占めした景色に目を奪われた。「本当にきれいでした」。2020年大会の招致活動が大詰めを迎えた昨年8月、色あせない記憶を記者に語った。

 招致成功の知らせが届いた翌月8日には、競技場で聖火台を見上げ「涙が出るほどうれしいよ」と顔をほころばせた。

 高さ2・1メートル、重さ2・6トンの巨大な聖火台。完成までの道は平たんではなかった。

 57年12月、埼玉県川口市の鋳物師、故鈴木万之助さん=当時(68)=の元に制作依頼が舞い込んだ。翌年5月のアジア競技大会に間に合わせるため、納期は3カ月後。弟子の三男、故文吾さん=当時(36)=ら家族一丸で連日取り組んだ。

 工程の終盤、鋳型が爆発し、それまでの努力が水の泡に。ショックから万之助さんは体調を崩し、58年2月に急逝した。文吾さんは妻に「失敗したら腹を切る」と悲壮な覚悟を告げ、執念で納期に間に合わせた。聖火台の内側に、亡き父の名前をそっと彫った。

 石巻市に貸し出される聖火台は、沿岸部に造る公園に置かれる予定で「被災者の励みになれば」と市の担当者。競技場は年内に解体、新国立競技場に建て替えられ、6年後の東京五輪・パラリンピックのメーンスタジアムとなる。

 10日、クレーンでの取り外し作業を見守った万之助さんの四男昭重さん(79)は「(設置から)56年間、本当にご苦労さまと心から思った。石巻でも大事にしてほしい」と感慨深そうに語った。

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